右上がりの供給曲線の非現実的な仮定

右上がりの供給曲線は基礎的なミクロ経済学の本の冒頭付近に出てきます。しかしながら、右上がりの供給曲線は反現実的と言えるほど非現実的な仮定の下で成り立っており、現実の経済では、ほぼ成り立ちません。

右上がりの供給曲線は、以下のような仮定の下で成り立っています。

  • 各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる。
  • 限界費用逓増である。
  • 完全競争市場である。

各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる

右上がりの供給曲線が存在するためには、各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせければなりません。生産したものが全て売れなければなりません。売れなければ、生産しない方がまだマシです。売れなければ、生産するのに要した原材料や加工の費用がムダになります。つまり、各々の供給者にとって、需要の数量は供給の数量以上でなければならないということです。供給者側が需要を制御する方法は一般に存在しません。したがって、需要の数量が生産の数量以上であるようにするには、各々の供給者にとって、需要の数量が無限大である必要があります。厳密には、供給者がそのように行動すればいいということです。供給者にとって、需要の数量が無限大であるかのように見なせれば良いということになります。

限界費用逓増である

「各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる」のであれば、限界費用逓増でないと、生産の数量が増える程、利潤が増えることになってしまいます。コスト割れの低価格でない限り、どんな価格でも生産の数量が無限大ということになってしまいます。

生産量が単位量増えた時の費用の増分である限界費用が逓増でないと、ある価格において、ある生産の数量で利潤が最大になるということは起こりません。限界費用一定や限界費用逓減であれば、生産の数量が増える程、利潤が増えることになってしまいます。

完全競争市場である

「各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる」が成り立つためには、完全競争市場でなければなりません。市場全体の需要の数量の合計が有限であることは明らかです。その一部である各々の供給者にとっての需要の数量も厳密に言えば有限です。「各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる」が成り立つには、各々の供給者にとっての需要の数量が、各々の供給者の供給の数量より、比較にならないほど大きい必要があります。これを満たす、理論的なものが完全競争市場です。

補足

供給という言葉だけだと、供給しようとする事前的な供給と、供給した事後的な供給の区別ができません。そのため、このエントリーでは、前者には、生産という言葉を使っています。生産も供給も、ものだけでなく、サービスも含みます。

所得は支出の結果(2)

所得は支出の結果』の補足です。

所得は支出の結果』であることは、経済学の「三面等価の法則(「三面等価の原則」とも)」と取引の仕組みをきちんと考察するだけで出てきます。

所得は支出に等しい

所得の値は支出の値に等しくなります。「所得=支出」であることは、経済学の「三面等価の法則」から明らかです。この式は、GDP(Gross Domestic Product、国内総生産)に関する事後的な恒等式です。取引終了時点で考えると、理論的には、常に式が成り立つということです。GDPについて、所得の値は支出の値に等しくなるように定義されていると言い換えることもできます。

もちろん、現実にはミスや不正があるので、完全に一致することはまずありません。しかし、もし、ミスも不正もなかったとしたら、完全に一致することになります。

一般に、GDPは、一年間の値で表しますが、一年間というのは、慣習に過ぎません。単位時間当たりの値であり、理屈の上では、1か月や1週間、1日単位のGDPすら可能です。時速36kmが秒速10mであるようなものです。実際、日本のGDPの速報値は、3か月単位で公表されています(厳密には季節調整済みの値です)。

GDPを単位時間で区切るだけでなく、個々の取引で区切ることも、理屈の上では可能です。個々の取引に区切っても、「三面等価の法則」は成り立ちます。つまり、個々の取引においても、「所得=支出」であるということです。

個々の取引においても、「三面等価の法則」が成り立っていることは、数学的にも証明できます。三面等価が成り立っていない取引があると仮定します。1年間の取引で三面等価が成り立っているとします。そこに、三面等価が成り立っていない取引を追加します。すると、1年間の取引で三面等価が成り立たないことになります。これは、三面等価恒等式であるということに反します。つまり、個々の取引についても、三面等価が成り立っているということになります。むしろ、個々の取引において、「三面等価の法則」が成り立っているので、1年間の取引をまとめても、「三面等価の法則」が成り立つと考えるべきでしょう。

一つもしくは少数の取引のみ考えれば良い

一つもしくは少数の取引のみ考えれば、GDPに関する経済的仕組みを考えるのに十分です。個々の取引も「三面等価の法則」を満たしており、取引の回数が増えると、合計の値が増えるに過ぎません。関係を理解するだけなら、代表的な、一つもしくは少数の取引のみ考えれば十分です。

個々の取引は支出したから成り立つ

個々の取引は支出したから成り立ちます。取引が成り立ったから所得が得られます。こう考えていくと、支出の結果が所得であるということになります。もちろん、供給者側が商品(以下、サービスも含む)を提供しなければ、取引は成り立ちません。しかし、商品を提供しただけでは、取引における価格は決まりません。供給者側は、価格を提示できますが、その価格を受け入れて取引を成り立たせるのは需要家側です。供給者側は、「安過ぎる、売らない」と取引しないことはできても、買って取引を成り立たせることを強制することは、基本的にできません。

もちろん、供給者側が商品を提供しない場合、取引は成り立ちません。しかし、需要家側が価格を承認しない場合も取引は成り立ちません。価格を承認して取引を成り立たせる決定権は、需要家側にあります。需要家が支出した結果、所得が生じます。

生産性に関する錯覚(2)

生産性に関する錯覚』の補足です。

生産性に関する錯覚』では、「生産量が生産性に依存する場合も生産性が生産量に依存する場合もある」と書きました。昨今の日本について言うなら、多くが後者です。したがって、マクロ経済の観点から言うなら、生産性を上げてもほとんど意味がありません。むしろ、逆効果になるおそれすらあります。

生産性を上げろと言うのは、供給者側の経営者か、彼らの代弁者です。いわゆる、ポジショントークに過ぎません。日本経済全体を見ているのではなく、自己の短期的な利益を言っているだけです。

生産量が生産性に依存する場合は商品の価格が上がる

生産量が生産性に依存する場合は商品の価格が上がるように作用します。なぜならば、商品の価格の上昇が需要を抑制して、不足している生産量が需要の数量に釣り合うように作用するからです。

逆に、生産性が生産量に依存する場合は商品の価格が下がるように作用します。

需要家が求めるものは、生産物であり、生産量である

需要家が求めるものは、生産物であり、生産物の数量の和としての生産量です。需要家は、生産性を求めていません。そもそも、認知できません。需要家にとって、価格や生産量に影響を与えない限り、生産性はどうでもいいことに過ぎません。

デフレは生産量が需要を上回っていることを示す

デフレは生産量が需要を上回っていることを示します。経済全体として、大部分の商品の供給の数量が需要の数量を上回るような状態にあることを示します。

需要と供給が一致するのに価格は必要ない

需要の数量と供給の数量が一致するのに価格は必要ありません。ミクロ経済学の部分均衡モデル等では、価格が変動し、需要の数量と供給の数量が一致するかのように見なします。しかし、需要の数量と供給の数量が一致するのは、単なる物理的現象に過ぎません。価格の変動どころか、価格自体が必要ありません。

物理的現象に過ぎないということは、価格が増えると供給が増える、いわゆる右上がりの供給曲線を想定する必要はないということです。

需要の数量と供給の数量が一致するのは物理的現象である

需要の数量と供給の数量が一致するのは物理的現象です。そのことは、以下のような例を考えてみればわかります。水道の蛇口にホースの一方を挿し込むとしましょう。蛇口からホースに単位時間あたりに流れ込む量とホースのもう一方から単位時間あたりに流れ出す量は、ある程度の時間が経てば、蛇口の開度が一定ならば、等しくなります。

ここで、ホースに単位時間あたりに流れ込む量を供給の数量、ホースから単位時間あたりに流れ出す量を需要の数量と考えれば、需要の数量と供給の数量が一致することは、単なる物理的現象に過ぎません。

このような例はいくらでも考えることができます。有料道路と、単位時間当たりに有料道路に流入するクルマの台数、有料道路から流出するクルマの台数。洗面器と、それに注ぐ蛇口から洗面器に単位時間当たりに流れ込む水の量、単位時間当たりに洗面器から溢れ出す水の量。こういったものはいくらでもあります。

有限の容器と流れ込み、流れ出す定常的と見なせるフロー(流れ)を想定できれば、物理的現象に過ぎないことがわかります。定常的と見なせれば、流れ込むフローの単位時間当たりの数量は、流れ出すフローの単位時間当たりの数量と一致します。

経済においても、倉庫や保管室が有限の容器の役割をします。また、「適正在庫」という概念が、弾力性のある有限の容器の役割をします。

需要の数量と供給の数量が一致するのは、物理的現象に過ぎません。したがって、同じものに複数の価格がついていても、大きなトラブルにはなっていません。逆に、一部の商品のように価格が統制されていたりしても、大きなトラブルにはなっていません。

移動等の費用をゼロとしたモデルに移動等の費用は付け加えられない

あらためて、移動等の、取引に付随する費用(含む時間、以下、移動等の費用)について整理してみましょう。

ミクロ経済学の部分均衡モデルや一般均衡モデルには、移動等の費用は出てきません。部分均衡モデルや一般均衡モデルが、移動等の費用がゼロであると仮定したモデルである、と錯覚しがちです。しかし、そうではなく、部分均衡モデルや一般均衡モデルは、移動等の費用がゼロであることを「前提」にしたモデルです。移動等の費用がゼロであることは、モデルを考える際の基盤となっているということです。暗黙のうちに、移動等の費用がゼロであることがモデルに取り込まれています。現実の経済から取引の部分だけを取り出したわけではありません。現実の経済から取引の部分だけを取り出しただけだと信じている人々は多いようですが。

「店に行く」という事象は、「店で商品を買う」事象より、時間的にも依存関係でも前に発生します。したがって、移動等の費用に何らかの前提を置かないと、モデルが作れません。移動等の費用が不明ならば、それを含めてそれらに対して行う経済判断の結果も不明です。経済判断ができません。移動等の費用がゼロであるという前提を置いたのが、部分均衡モデルや一般均衡モデルということになります。

移動等の費用がゼロであることを前提にしたモデルなので、そのモデルに移動等の費用を付け加えることはできません。移動等の費用がゼロであり、かつ、移動等の費用がゼロではない、という論理は成立しません。数学的に言うなら、空集合が得られるだけです。

摩擦がゼロであるモデルに摩擦を付け加えるのと同様だ、と反論する人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。摩擦が考慮に入っていないモデルに摩擦を付け加えて、摩擦がゼロでないモデルを作っているのです。摩擦がゼロであるモデルと摩擦が考慮に入っていないモデルが区別できないため、結果として、摩擦がゼロであるモデルに摩擦を付け加えるのと同じ形になっているだけです。

つまり、部分均衡モデルや一般均衡モデルは、現実の経済に対する意見の根拠にならないということです。あくまでも、移動等の費用がゼロである条件下でそうなるということです。移動等の費用がゼロでない現実の経済のおいてどうなるかは、別の根拠が必要です。コウモリが空を飛べることは、同じ哺乳類であるヒトが空を飛べることを意味しません。

経済判断には、移動等の費用も含まれている

経済判断には、その対象として、移動等の費用も含まれています。商品1個ごとにレジに並び直す?』で挙げているように、同じ種類の二つの商品を同等の取引条件の二軒の店から選択して買うという仮定をしただけで、移動等の費用をゼロと見なすことができなくなります。移動等の費用がゼロなら、二軒の店で各々一つずつ商品を買うという行為が、最大の確率となります。しかし、誰もそんなことはしません。経済判断には、その対象として、移動等の費用も含まれているからです。二軒の店の間を移動して移動等の費用を増やすことはしません。

摩擦がゼロのモデルと摩擦が考慮に入っていないモデルとは区別できない

摩擦がゼロのモデルと摩擦が入っていないモデルとは区別できません。「A+0=A」なので、ゼロの摩擦を足したのか、摩擦を足していないのか区別できません。すなわち、ゼロの摩擦を足した、摩擦がゼロのモデルと、摩擦を足していない、摩擦が考慮に入っていないモデルとは区別できません。

摩擦がゼロのモデルに摩擦を足したかのように見える

一見、摩擦がゼロのモデルに摩擦を足したかのように見えます。しかし、これは摩擦がゼロのモデルと摩擦が考慮に入っていないモデルとが区別できないため、摩擦が考慮に入っていないモデルに摩擦を付け加えたものを見誤っているに過ぎません。

移動等の費用がゼロのモデルに移動等の費用を付け加えることはできない

移動等の費用がゼロのモデルに移動等の費用を付け加えることはできません。移動等の費用がゼロであり、かつ、移動等の費用がゼロではない、という論理は成立しません。

また、「店に行く」という事象は、「店で商品を買う」事象より、時間的にも依存関係でも前に発生しますから、移動等の費用を割り込ませることになります。合成関数の交換法則は一般に成り立ちませんから、この点でも、移動等の費用を付け加えることはできません。f(g(x))は一般にg(f(x))に等しくありません。

補足

なお念の為に言っておくと、移動の費用等の無いモデルを作るなと言っているつもりはありません。一種の思考実験として、移動の費用等の無いモデルを作ることは否定しません。しかし、それは、現実の経済に対する意見の根拠には一般になりません。

生産性に関する錯覚

はてなブックマークで、生産性に関する意見がいくつかありました。生産性に関しては、誤解が多いようなので、少しまとめてみましょう。

  1. 生産性は生産量と投入量の比である。
  2. 生産量が生産性に依存する場合も生産性が生産量に依存する場合もある。
  3. 広く一般的に使用できる生産量は、付加価値とかTOCスループットくらいしか無い。
  4. 生産性は、仕入れから販売までのように通して考える必要がある。
  5. 一部の生産性の向上が全体の生産性の向上に全く寄与しないことがある。

生産性は生産量と投入量の比である

生産性は生産量と投入量の比です。生産量を投入量で割ったものです。

生産量は、付加価値(国単位ならGDP)やTOCスループット等で表します。経時的データの場合、生産台数等が使われる場合もあります。

投入量は、労働時間や労働人口で表すことが多いです。

生産量が生産性に依存する場合も生産性が生産量に依存する場合もある

生産量が生産性に依存する場合も、逆に生産性が生産量に依存する場合もあります。経済学の比較生産費説は、生産量が生産性に依存するようになっていますが、そのような保証はありません。一般に、供給の数量が制約になっている場合は、生産量が生産性に依存します。逆に、需要の数量が制約になっている場合は、生産性が生産量に依存します。

広く一般的に使用できる生産量は、付加価値とかTOCスループットくらいしか無い

広く一般的に使用できる生産量は、付加価値とかTOCスループットくらいしかありません。例えば、売上は、流通経路で多重計算されてしまうリスクがあります。同じ部門の経時的データくらいにしか使えません。

異なる商品等も統一的に扱おうとすると、金銭的なデータしかありません。さらに、多重計算を避けると、付加価値とかTOCスループットくらいしかありません。

生産性は、仕入れから販売までのように通して考える必要がある

生産性は、仕入れから販売までのように通して考える必要があります。言い換えると、経路を区切った生産性は、意味がありません。これは、もう一つの内容と密接に関連しているので、詳細は後述します。

一部の生産性の向上が全体の生産性の向上に全く寄与しないことがある

一部の生産性の向上が全体の生産性の向上に全く寄与しないことがあります。逆効果になる場合もあります。

例を挙げてみましょう。ベルトコンベアで前工程から後工程に無条件でものが送られてくるとします。この時、前工程が頑張って、後工程にどんどんものを送り出したとします。しかし、それだけでは、前工程から後工程にものを大量に売っていると見なせるに過ぎません。逆に後工程から見ると、大量にものを買っていることになります。前工程から見ると、売った額が増え、付加価値やスループットが増えるかのように見えます。しかし、後工程から見ると、買う額が増え、付加価値やスループットがその分減ることになります。

TOCが、スループットを最終的な販売額から原材料費を引いたものとしているのは、そこに理由の一つがあります。中間的な生成物が増えても、その後の工程側から見れば、それは、生産性を下げる要素にしかなりません。

単純な工程の連鎖だけでなく、権力等による強制力が作用することもあります。このような場合も、一部の生産性の向上が全体の生産性の向上に寄与する、とは限りません。損を他所に押し付けているに過ぎないかもしれません。

一部の生産性の向上は全体の生産性の向上に寄与する、と言えるのは、個々が全く自由に振る舞える場合のみです。

国の借金詐欺

『成長で財政は黒字化』と高をくくる人に伝えたい 借金をツケ回すコスト=利払い費が増えてゆく」という記事があまりに酷いので反論します。

すぐ分かる問題点が二つ。

  • そんなに利払い費が心配なら、何故、債権放棄を提唱しないのか?
  • ほとんど全ての国債は、固定金利であり、金利が上昇しても利払い費は増えない。

そんなに利払い費が心配なら、何故、債権放棄を提唱しないのか?

そんなに利払い費が心配なら、何故、債権放棄を提唱しないのですか?債権放棄は、あくまでも権利の放棄ですが、政府が保有し、国会決議で方針が左右される機関ならば、国会決議を無視できません。最悪、法律を改定することもできます。国債保有している政府関係の機関には国債を放棄させることが理論的には可能です。国債の半数以上は、日銀が保有しており、国会決議を無視できません。

実際には、日銀が保有している国債の利払いや元金は、自動的に国庫に納付されます。差し引きゼロです。節約できるのは、事務手数料程度であり、手続き変更のコスト等を考えると割に合わないかもしれません。

逆に言えば、国債過半数を日銀が保有している以上、利払い費は、相対的に見るとさほど大きくなりません。

ほとんど全ての国債は、固定金利であり、金利が上昇しても利払い費は増えない

ほとんど全ての国債は、固定金利であり、金利が上昇しても利払い費は増えません。個人向けに変動金利国債があるだけです。

もちろん、償還分の国債に見合う国債を発行すると、その国債については、上昇した金利に合わせる必要があります。しかし、その場合は、金利の上昇に先立ち、景気が回復しているはずなので、政府支出は相対的に減少し、政府収入は相対的に増加しているはずです。したがって、国債の発行分も相対的に減少しているはずです。

景気が回復せず、金利だけ上昇したらどうする?と反論する人も、いるかもしれません。しかし、そんなことが起きるでしょうか?どういう仕組みで、そんなことが起きますか?そう考えていくと、金利だけ上昇するというのは、根拠のない、反論のための反論に過ぎないことがわかります。

日銀は、円を理論的には無限に発行できます。利払い費等、気にする必要はありません。気にしなければならないのは、インフレ率です。円を発行し過ぎれば、インフレ率が上昇するので、円の発行し過ぎに注意を払う必要があります。

補足

そもそも、利払い費を減らして、国民に何の利益があるのか?という問題もあります。「所得は支出の結果」で書いたように、誰かの所得は、別の誰かの支出の結果です。政府が利払い費を減らすことは、国民全体から見ると、国民の所得を減らすことに他なりません。利払いによる不公平の是正の必要はありますが、利払い費そのものを否定するのは、マクロ経済の無知と言われても仕方ないでしょう。