市場の力を過信してはならない

価格を統制して安く抑制しすぎると、闇市等が発生して、価格統制がうまくいかなくなります。市場を無視しすぎてはなりません。しかし、市場を万能視することも間違いです。

市場は、政府や中央銀行に対して、以下のような弱点を抱えています。

  • 市場のルールや制度は、政府や中央銀行に依存するものが大きい。
  • 市場は、利益すら相反することのある、幾多の経済主体の集まり。

市場のルールや制度は、政府や中央銀行が決定したものも多いです。政府や中央銀行が市場の参加者として大きいというだけでなく、色々な点で有利でさえあるということです。

例えば、日銀は、円の発券銀行です。円建て国債にたいしては、理屈の上では、無限に円売り国債買いを行うことが可能です。日銀の円売りに対しての円買いは、未亡人製造機(ウィドウメーカー)と呼ばれているそうです。日銀はほぼ無敵です。

こうしたことを聞くと、ジョージ・ソロスらが、イングランド銀行のポンド防衛を失敗させたことを根拠に反論する人々もいるでしょう。しかし、これは方向が逆です。

イングランド銀行が狙ったのは、ポンド防衛であり円買いに相当します。ソロスらは、言わば円売りを仕掛けたのです。この場合、外貨が枯渇すると、ポンド防衛のリソースが無くなります。イングランド銀行でも、保有する外貨は有限です。十分な経済力があれば、イングランド銀行の外貨を枯渇させることは可能です。それに対して、日銀の円売りは、理屈の上では、無限に可能です。立ち向かうことは不可能です。素手で戦車に立ち向かう方が、まだしも、勝ち目があるようにさえ見えます。

市場は、利益すら相反することのある、幾多の経済主体の集まりです。統一されたものではありません。むしろ、隙を見せれば、他の市場参加者に寝首をかかれるおそれすらあります。

デリバティブでは、保有している以上の国債を売ることが可能です。一見、国債売り円買いで国債を売り崩すことが可能であるかのように思えます。しかし、実際には、精算のための反対売買が必要です。逆に、円売り国債買いが必要です。こうしたことは、他の市場参加者も当然知っています。従って、国債売り円買いで国債を売り崩そうとすると、他の市場参加者に円売り国債買いで儲ける機会を提供することになってしまいます。もし、他の市場参加者が円売り国債買いを仕掛ければ、国債はほとんど下がらないことになります。上がるおそれすらあります。

こうした反対売買が如何に恐ろしいかは、逆の例ですが、原油先物価格がマイナスになった例が示しています。価格がゼロなら売らなければいいのですから、本来、価格がゼロ以下にはならないはずです。しかし、反対売買は違います。いくら下がっても買わなければなりませんし、いくら上がっても売らなければなりません。理屈の上では、限度がありません。従って、日銀の円売りに対して空の円買いを仕掛けると、天文学的な損害が生じる虞があります。

なお、ここで否定しているのは、日銀の円売りに対抗するような円買いです。市場のレートを動かさないような小規模の円買いは否定していません。また、インフレで日銀が円売り出動できないような場合の円買いも否定していません。

(2023/03/24:箇条書きが壊れていたので修整)

四重の等価

マクロ経済には、私が、「四重の等価」と呼んでいるものがあります。税等を除外して考えると、ある取引において、「支払い(支払った金額)」と「受け取り(受け取った金額)」、「供給した商品」、「供給された商品」は、等価であるというものです。なお、商品にはサービスも含みます。「支払い」と「受け取り」は同額です。「供給した商品」と「供給された商品」は同じものです。経済学や会計では、「支払い」と「供給した商品」は等価と見なします。「受け取り」と「供給された商品」も等価です。従って、取引においては、四つの値が等しくなります。私は、これを「四重の等価」と呼んでいます。

「四重の等価」という言葉は覚える必要はありません。しかし、一つの取引に、等しい四つの値があることは、覚えておく必要があります。なぜなら、これらのうちの一つだけを変更することはできないからです。しかし、一つだけを変更することができるかのように錯覚した議論する人々は、少なくありません。

例えば、節約して「支払い」を減らすことは、誰かの「受け取り」を減らすことです。従って、全体としては、豊かにはなりません。それどころか、皆が「支払い」を減らそうとすると、お互いに「受け取り」を減らし合うことになります。むしろ、全体としては、貧しくなります。脚の引っ張り合いになります。

経済主体の集合と見るミクロ経済学、取引の集合と見るマクロ経済学

私は、経済を基本的には(企業や家計等の)経済主体の集合と見るのがミクロ経済学、経済を基本的には取引の集合と見るのがマクロ経済学だと認識しています。言い換えれば、ミクロ経済学では経済主体の判断を中心に考えるのに対し、マクロ経済学では経済の仕組みを中心に考えるということになります。

どちらも重要ですが、経済の仕組みに関する理解が特になおざりにされているように思います。経済主体の判断に関しては、ミクロ経済学だけではなく、経営学もあります。それに対して、取引の集合という見方はほとんど普及していません。検索しても、ほとんど引っ掛かってこないほどです。

債権と債務は盾の両面ですが、理解している人々は、少数のようですし、所得は支出の結果ですが、ほとんど理解されていないようです。こうしたマクロ経済の仕組みは、ほとんど理解されていないようです。天動説と地動説の違いに似ています。「日が昇る」とか「月が没む」とか、一見、天動説が正しいように見えますが、正しいのは、もちろん、地動説です。地動説が正しいように見える理由の一つは、自分という視点に固執しているからですが、マクロ経済についても、自分自身という視点に固執しているため正しく理解できないようです。

商品の区別は主観に帰する

同じ商品でも買い手は売り手を選択する』と書きましたが、もっとトンデモない問題があります。商品の区別は主観に帰するという問題です。商品の区別は、突き詰めると主観から逃れられないという問題です。同じ商品か否かという区別は主観から逃れられないということです。主観とは、ある種の価値判断です。つまり、部分均衡モデルや一般均衡モデルもある種の価値判断の結果です。分類も突き詰めると、完全には客観的なものではないということです。

この問題がさほど話題にならないのは、ほとんど知られていないということと、ここまで、突き詰めて考える人がほとんどいないからでしょう。

しかしながら、数学的厳密さを追求していくと、この問題がこれまでのミクロ経済学の多くを否定していることがわかります。分類は客観的なものではないので、一般均衡モデルにおける分類という軸が否定されます。一般均衡モデルが数学的に矛盾を抱えていることが証明されます。また、「ある商品」という分類が客観的なものではないので、それの需要や供給も客観的なものではありません。部分均衡モデルも客観的なものではないことになります。

区別が主観に帰するという根拠は、「みにくいアヒルの子の定理」という定理です。アンデルセンの童話『みにくいアヒルの子』に因んで名付けられた定理で、渡辺慧が1969年に発表したものです。純粋に客観的に見ると、「みにくいアヒルの子(白鳥の子)」と「普通のアヒルの子」の共通点の数は「普通のアヒルの子」同士の共通点の数と等しいという定理です。すなわち、純粋に客観的に見ると、「みにくいアヒルの子(白鳥の子)」は、「普通のアヒルの子」同士と同じだけ「普通のアヒルの子」に似ているという定理です。似ていることの判断は、共通点に重み付けをしているからであり、純粋に客観的なものではないということです。

みにくいアヒルの子の定理」は、機械学習の普及とともに知られるようになった定理です。盲目的な機械学習の無意味さを示す定理だからでしょう。分類が主観から逃れられないことはこの定理から導かれます。

GDPはGDEを基とする

GDP(Gross Domestic Product 、国内総生産)はGDE(Gross Domestic Expenditure、国内総支出)を基とすると言えます。『所得は支出の結果』という因果関係が成り立ちますから、GDI(Gross Domestic Income、国内総所得)はGDEを基とすると言えます。「所得=支出」を「生産(付加価値)」と等しいと見なすという経済学の定義、ルールによる関係がありますから、GDPはGDEを基とすると言えます。

厳密に言うならば、商品(含むサービス)の価値は、取引において、買う為に支払った金額、売って受け取った金額で表します。その金額には、以前に支払った金額、受け取った金額が一般に含まれているので、差し引く必要があります。差し引いた金額が、「所得=支出」であり、商品の価値が、「生産」ということになります。期間内の国内における合計が、GDPであり、GDEです。

GDPは、GDEと等しくなるよう定義されているということです。そして、GDEこそ基となる値ということです。

電力は例外的2

電力は例外的1』の続きです。

電力は、構成する機器のいくつかも、商品としても、例外的なものです。

電力は、需要の数量と供給の数量がほぼ完全に常に等しいという、希有な商品です。いわゆる、売り切れや売れ残りはありません。満室や満席で断られたり、空室や空席でのガラガラに相当することもありません。

電力においては、需要の数量と供給の数量の不一致が深刻なトラブルとなります。供給不足だと、大規模な停電が起こりえます。供給過剰だと、周波数が上がり、電圧も上がります。電力の周波数は、機械の精度に大きな影響を減らす与えることがあります。電圧が上がりすぎれば、機械が壊れます。供給不足では、周波数や電圧に与える影響は逆ですが、落雷やショートに対するガードも必要なので、ある程度以上の変動を検知すると電力を遮断するようです。

需要の数量と供給の数量を一致させる必要があるので、機器の特性や外部的要因で出力を変動させられない、原子力発電や水力発電は、ベースとなる電力にしか使えません。需要の変動に対処するため、出力を変動させやすい火力発電が必要です。需要が増大した時な予備として、老朽化した発電機器も温存する必要があります。

火力発電や老朽化した発電機器が必要なのは、需要の変動に対応するためです。皮肉になりますが、限界費用で供給の数量を決められるならば、火力発電や老朽化した発電機器を廃した方が、限界費用は少なくなります。火力発電や老朽化した発電機器の存在自体が供給の数量が限界費用以外により決まっていることを示しています。

なお、『電力は例外的1』やこの記事で電力の限界費用に関してのみ批判しているのは、見過ごせないからではありません。逆で、他の多くの供給曲線を限界費用により説明しようとするものは、ほとんどが根拠を示さない思い込みに過ぎません。ほとんどが反論以前の内容です。

日本経済の低迷を謀る?日本政府

GDPでドイツに抜かれる?』という記事がありました。GDPの抑制、悪化が政府の方針なのだから、起こり得る結果です。直接的にGDPの抑制、悪化を政府の方針として掲げてはいないにせよ、GDPの抑制や悪化をもたらす多くの政策を推進している以上、政府の方針と言われても仕方ないでしょう。

所得は支出の結果』で、GDPは、国内で期間(通常1年間)に生産された商品やサービスの合計をそれに支出された金額の合計で表したものです。GDPは、国内総支出に等しくなります。国内総支出を増やすことがGDPを増やすことです。

一旦所得が低下すると、一般の企業や家庭は、所得に依存して、支出を減らします。個々の企業から見ると、所得が減るから支出を減らす、全体から見ると、支出を減らすから所得が減る、という悪循環に陥ります。

通貨発行権を持ち、営利企業ではない、政府のみが、ほぼ唯一、所得に関係なく支出を増やすことができます。政府支出を増やすことで、民間企業等の所得を増やし、日本経済を回復させることができます。