電力は例外的1

限界費用が増大する限界費用曲線の例として、電力を挙げている本がありました。しかしながら、電力は、商品としても、構成する機器のいくつかも、例外中の例外と言えるほど例外的なものです。

原子力発電機器や水力発電機器は、機器として例外的なものです。原子力発電機器は、停止状態から、非常に時間をかけて最大出力にするしかありません。ガソリン車のように出力を大きく上下させることはできません。夜間の電力需要の低下に合わせて出力を低下させることすらできないほどです。揚水発電所を作って電力の需要を作り出し、電力を蓄えているほどです。フランスが原子力発電の比率が高いのは、夜間、電力を陸続きの他国に輸出して、夜間の電力需要を作り出しているからです。天災等で出力を低下させる時は、緊急停止装置を使って停止させるしかありません。

水力発電機器も原子力発電機器ほどではありませんが、出力の自由がありません。治水や利水のために水を流す必要があります。電力需要だけから自由に出力を変更することは一般にできません。

多くの機器は、ある程度の出力で定常的に運転している時が最も効率的です。最低出力で運転している時は、けして効率的ではありません。例えば、ガソリン車やディーゼル車のアイドリング時の走行燃費はゼロです。走っていないからゼロになります。燃料消費は少なくても効率は最悪です。このように、 ある程度の出力で定常的に運転している、原子力発電機器や水力発電機器は、最も効率的な条件で運転されていることになります。しかし、それは、機器自体の動作する条件によるもので、限界費用に基づくとは言えません。

政府の債務は借金ではなく、単なる約束事

発行済み日本銀行券(紙幣)や発行済み円建て国債等が日銀や政府の債務として扱われるのは、「それらを債務として扱う」という約束事の結果に過ぎません。ゼロの階乗を1とするのと同様、単なる約束事です。

nの階乗は、nから1までの積です。ゼロの階乗はゼロになりそうですが、1と定義されています。そちらの方が数学的に都合が良いことが多いからです。日銀や政府の債務という扱いになっているのもその方が都合が良いからに過ぎません。債務という扱いにしないと、日銀券や国債のために特別に会計上の扱いが必要になります。債務という扱いにすれば、社債や地方債、公債と同様の扱いができます。

日銀や政府の債務として扱うのは、約束事に過ぎませんから、借金として扱うのは、話が逆転しています。

日銀券は、古いものを新しいものに交換すれば良いだけですし、国債ロールオーバー(借り換え)すれば済むことです。これも本質的に同じもの同士の交換です。同じもの同士の交換ですので、借金と考えるのはかなりの屁理屈でしょう。

光は遅すぎる

現実経済の市場は、ミクロ経済学の反証に満ちています。ここに挙げているのも、その一つです。

部分均衡モデルや一般均衡モデル等のミクロ経済学では、価格が一瞬で伝わり、価格の伝わる速さは無限大であるかのように仮定されています。しかし、現実には、価格の伝わる速さは、光の速さ(厳密には光を含む、電磁波の速さ)に制限されます。

光の速さは、多くの普通の商品に対しては、無限大であるかのように見なして良いでしょう。しかしながら、逆に、光の速さというより光の遅さが、重要な問題になっている商品もあります。

株式の取引等では、光の遅さが重要な問題になっています。株式の高速取引とか呼ばれているものがそうです。高速取引では、1ミリ秒以下のレベルが必要になります。1ミリ秒では、光の速さで移動しても東京大阪間の片道にもなりません。このように通信の時間が重要な問題になるため、取引所の株式売買システムサーバーと同じ建屋内に企業の高速取引サーバーを置くことのできるコロケーションサービスが提供されています。

このように、少なくとも株式等の商品においては、価格が伝わることに時間がかかることを前提としないとモデルとして使い物になりません。

ミクロ経済学者は「合理的な人々」ではない

現実経済の市場は、ミクロ経済学の反証に満ちています。ここに挙げているのも、その一つです。ミクロ経済学者に対する皮肉になっています。

経済学の十大原理と呼ばれるものの一つに以下のようなものがあります。

合理的な人々は限界原理に基づいて考える

その対偶は、「限界原理に基づいて考えない人々は合理的な人々ではない」ということになります。対偶の真偽は等しいという数学法則に従えば、上述の経済学の十大原理の一つを認めるということは、この対偶も認めるということになります。

ところで、『同じ商品でも買い手は売り手を選択する』の中で 以下のように書いています。

同じ商品でも買い手が売り手を選択する理由は簡単です。実は、ミクロ経済学限界原理と呼ばれるもので説明できます。取引に付随する費用を含めた取引全体の費用を考え、その費用の限界費用を考えます。すると、買う数量を増やした時、同じ売り手から買う方が、異なる売り手から買うより、移動等の費用が節約できる分少なくなります。限界費用が少くなる方を選ぶという当然のことをしているだけです。

つまり、ミクロ経済学者は、取引に付随する費用を無視することにより、取引全体の費用の限界費用の違いを無視していることになります。

この点で、『ミクロ経済学者は「合理的な人々」ではない』ということになります。合理的か否かと二分するつもりはありません。しかし、このような例を考えると、ミクロ経済学者の合理性には大きな疑問が付きます。

限界費用からは、夏にホットコーヒーを売り、冬にアイスコーヒーを売る

現実経済の市場は、ミクロ経済学の反証に満ちています。ここに挙げているのも、その一つです。

限界費用から供給の数量を決めたりしていない直接的証拠もあります。限界費用から言うと、夏にホットコーヒーを売り、冬にアイスコーヒーを売るはずだからです。

温めたり冷やしたりする費用は、温度差が少ないほど少なくなります。暖冬では暖房費が少なくなり、冷夏では冷房費が少なくなるのは、広く知られています。つまり、温かい飲食物を供給する費用は暑い夏の方が安くなり、冷たい飲食物を供給する費用は寒い冬の方が安くなるはずです。限界費用も同様です。限界費用から言うと、夏にホットコーヒーを売り、冬にアイスコーヒーを売るということになります。

もちろん、現実経済では逆です。『供給は需要で決まる』からです。冬にホットコーヒーを売り、夏にアイスコーヒーを売るのは、需要によります。

商品の限界費用を素早く、正確に知ることはできない

現実経済の市場は、ミクロ経済学の反証に満ちています。ここに挙げているのも、その一つです。

ミクロ経済学の部分均衡モデル等では、商品の供給の数量は、商品の限界費用と市場価格が一致するレベルで決まると仮定されています。しかし、現実経済に合っていません。商品の限界費用を素早く、正確に知ることはできないからです。

限界費用を正しく知るには、以下のような問題があります。

  • 大勢いる間接部門
  • 複数の種類の商品に共通する原材料や機械、労働者
  • 日々変動する為替レートや原材料の価格

多くの供給者では、商品の生産等に直接は関係しない間接部門に相当数の人員がいます。これらの人々が限界費用にどう影響しているかは、重要な問題です。大まかな近似としては、完全に固定的費用として、その部分の限界費用としてはゼロであると見なすことも有りでしょう。しかし、厳密にそれで良いかは難問です。

複数の種類の商品に共通する原材料や機械、労働者等の費用は、当然、限界費用に反映する必要があります。しかし、複数の種類のどれにどれだけ課すかは難問です。最終的な商品に残る原材料ならば、最終的な商品における比率で良いでしょう。しかし、残らないものは、こうした客観的基準があるとは限りません。

さらに厄介なのは、部分均衡モデル等では、現在の供給の数量における限界費用ではなく、供給の数量を決めるための限界費用を計算する必要があるということです。すなわち、個々に独立した限界費用を計算するのではなく、膨大な変数のある連立方程式として、供給している全ての商品の限界数量を一度に計算する必要があります。

もちろん、現実経済には、計測する費用が発生します。計測の誤差による制約もあります。

こうしたことが問題にならないのは、限界費用を計算して供給の数量を決めたりしようとしていないからということになります。大まかな指針としての近似値の限界費用は必要でも、『供給は需要で決まる』のならば、供給の数量を決めるための限界費用は必要ないということになります。