一般均衡モデルという統制経済モデル

同じ商品とはどういうことか

同じ商品に価格差があれば、安い方で買って高い方で売る裁定取引が行われ、価格差が収斂していく。だが、「同じ商品」と見なすのか否かという問題がある。

さて、結局どうなるかと言うと、太郎がどんどんと人市からミカンを運んできて売るので、猿市でミカンがあふれてしまって、さすがに猿も食べきれずにミカンの値段が下がるはずです。どこまで下がるかって?

この猿市で人が裁定するためには、実はものすごい大きな大前提がある。

人がもってきたミカンを、猿が自分たちが商っているミカンと同じものだと見なすか否か、ということだ。

ここに、経済学でいうところの一般均衡モデルの大きな問題がある。同じ商品とみなすか否かというのは、「ご都合主義な一般均衡モデル」でも述べているが、主観的な価値観で決まることだからである。

どちらも、「オウム信者」、「ファシスト」、「日本国民」、「中国人」、「韓国人」という「集団」で「一からげ」にしている。しかしある集団に属する人々を、その集団の属性だけで「割り切る」ことがどこまで出来るのだろうか?

単一の属性だけを持つ人はいない。「24時間信者」も「24時間日本国民」も存在しないのだ。あるときは信者、あるときは国民、あるときは客、あるときは従業員....一人が背負う属性の、なんと多い事か。

人の分類だけではなく、商品の分類に同様のことが言える。ある商品が持つ属性は無数にあり、それらの属性のうち、重要と見なす属性により、われわれは商品を分類している。だが、何を重要と見なすかはつまるところ個人の価値観であり、個人の主観に大きく左右される。同じ商品と見なすか否かは主観に大きく左右される。

絶対的な価値観を前提としている一般均衡モデル

商品の価格や数量を変数として扱うために、一般均衡モデルでは商品の分類自体は前提として絶対的なものとなっている。商品の分類に関しては、絶対的な価値観を前提としている。
絶対的な価値観を前提としている一般均衡モデルは、ある意味極端な統制経済に基づいたモデルだと言える。旧ソ連でさえ、心の中の価値観まで統制していたわけではない。だが、一般均衡モデルは心の中の価値観にさえ絶対性を求めている。