経済学という宗教?

経済学における議論は、ともすれば、イデオロギー的、宗教的になることが珍しくない。それは、経済学における論証の方法が宗教的だからである。

一般の自然科学においては、ある理論、法則の根拠となるのは、再現性のある事実である。例えば、相対性理論は真空中の光の速さが一定である事実から導き出される。それに対して、経済学ではそれ自体が論証の必要性のある「仮説」から導き出されていることが多い。その「仮説」を肯定する事実が乏しい場合どころか、否定する事実が多く得られているケースも少なくない。そのような「仮説」に固執する点で経済学は宗教的と見なされてもしかたない。
均衡モデルにおける右上がりの供給曲線は、生産量を増やすに従い単位あたりの利潤が低下するという、収穫逓減を根拠としている。だが、収穫逓減はそれを裏付ける事実に乏しいどころか、それを否定する事実がいくらでもある。
自由貿易を擁護する根拠として挙げられるのが、リカードの比較優位である。比較優位による分業が両者の利益になるというものである。だが、自由貿易が比較優位による分業をもたらすか否かは明確ではない。仮に自由貿易が比較優位による分業をもたらすとしても、それが、何百年、何千年もかかるものであれば意味はない。