客観性信仰、合理性信仰、科学信仰(2)

4日のエントリに対して、まさにエントリで批判の対象として想定していたような考え方でのコメントがあった。

「主観的、非合理的、非科学的」とか言うだけなら誰でもできる

「主観的、非合理的、非科学的」とか言うだけなら誰でもできる。言われている方より言っている方にこそ当てはまることは珍しくない。根拠を示さずに単に「主観的、非合理的、非科学的」とか言っているだけなら、耳を貸す価値はない。トンデモとか擬似科学とか呼んでいる方の論法が、トンデモとか擬似科学とか呼ばれるても仕方のないものであることは、珍しくない。

自分自身の考えが「主観的、非合理的、非科学的」であることにはなかなか気づかない。

自分自身の考えが「主観的、非合理的、非科学的」であることにはなかなか気づかない。だから、4日のエントリで述べたように、「客観的、合理的、科学的といった言葉は、あくまでも、相対的なものに過ぎず、絶対的なものではない」ことを肝に銘ずる必要がある。
さもないと、「事実は理論を変えない」というエントリで挙げられている、明治時代の脚気論争のようなことになる。森鴎外は、陸軍軍医の頂点である陸軍軍医総監の地位まで上ったが、脚気の伝染病説を主張し、日露戦争において陸軍が多数の死者を含む脚気患者を出した責任者とされている。