均衡モデルという理想的な統制経済

一般均衡なり、教科書的な部分均衡分析なりを批判するのは簡単である。それは非現実的なモデルであるからだ。したがって、ちまたの教科書的なミクロ経済学への多く批判にたいしてはうなずくしかない。教科書のモデルが現実的ではないのは本当なのだ。 しかし、それが主流の経済学への批判にはかならずしもならい。そのへんのことは教科書でさえ、ふれているし、多くの経済学者がモデルを現実にちかづけようと努力している。

ものごとを一旦理想化、単純化して考えるのは、自然科学でも普通の手法であり、それだけなら均衡モデルを批判したりはしない。現実の経済と均衡モデルとの違いは、現実と理想との違いではなく、現実と空想との違いである。「現実的ではなく空想的」と批判しているつもりである。

おそらく、教科書的なモデルをふまえてのミクロ経済学への批判として有効なのは「そんなとこから出発しても、現実にちかづけないよ」ということだろう。たぶん、それがミクロ経済学者にとって、いちばん痛い。つまり、一般均衡から出発して拡張していく仕事全体を批判することだ。

均衡モデルは、市場経済をモデル化したものではなく、理想的な統制経済をモデル化したもの」と既に述べている。均衡モデルは、「分権的なシステムにおける情報処理システムとしての価格メカニズム」ではない。中央集権的なシステムを仮定していることに均衡モデルの問題がある。

均衡モデルで供給曲線が成り立つのは、買い手が商品を無差別選択するからである。買い手が商品を無差別選択するのは、売り手が実質的に「仲買人」一人しかいないからである。売り手が一人しかいない統制経済、それが均衡モデルである。決められた価格で商品をいくらでも買ってくれるならば、売り手はコストだけを考えて供給量を決める。供給曲線は、決められた価格で商品をいくらでも買ってくれる特殊な統制経済だからこそ成り立つ(厳密には、供給量一定の場合や原材料を必要としない商品の場合なども成り立つ可能性がある)。