自由貿易には理論的根拠は無い(2)
この一見非の打ち所がないはずの比較優位の原理に、しかし違和感を禁じ得ないのはなぜだろう。
一見非の打ち所がないどころか、穴だらけの論理に見えるのだが……。なぜ、こんな穴だらけの論理が未だに生き残っているのか不思議なくらいである。
自由貿易が比較優位に基づく国際的分業につながるかどうかは不明
まず、「自由貿易には理論的根拠は無い」でも述べているように、「自由貿易が比較優位に基づく国際的分業につながるかどうかは不明」という問題がある。比較優位に基づく国際的分業が相互に利益をもたらすとしても、自由貿易がそれをもたらすかどうかは別の問題である。自由貿易が比較優位に基づく国際的分業をもたらすメカニズムを論証する必要がある。
国内における分業を否定したリカードのモデル
自由貿易が比較優位に基づく国際的分業をもたらすか否かを考えようとすると、国内でも比較優位に基づく分業の利益が発生していることを考慮する必要があるが、リカードのモデルではこれは存在しないものと仮定されている。
先進国では、750人を労働させて750単位の工業製品と、残りの250人を労働させて125単位の農産物を作っている。 途上国では、1000人を労働させて100単位の工業製品と、残りの1000人を労働させて250単位の農産物を作っている。 世界全体では、850単位の工業製品と、375単位の農産物が生産されることになる。 先進国は工業製品も農産物も両方とも途上国より効率的に作れるのだから、途上国と貿易しても意味がないように思われる。 それでは先進国で1000人の人口全てを工業製品の生産に振り分けてみよう。 この場合、1000単位の工業製品が作られる。 途上国では2000人の人口全てを農業製品の生産に振り分けよう。 この場合、500単位の農産物が作られる。 世界全体では、1000単位の工業製品と、500単位の農産物が生産されることになるので、各国がそれぞれ比較優位な産業に特化して生産した方が世界全体では生産性が上がることが分かる。 先進国と途上国で工業製品と農産物を別々に作り、貿易により工業製品と農産物を交換した方が全体のパイが増えるのである。
ここでは、二国間における比較優位はあっても、国内における比較優位はないとされている。個人の能力に向き、不向きはなく、どんな職業についても、その職業の平均レベルを発揮できるとされている。喩えて言えば、大学に入学したばかりの学生でもその日から経済学の教授が務まるかのように仮定されているということである。
このモデルでは、国内における賃金格差なども存在しないはずである。