「私が自然法則の実在性を認めているとかいう誤解」をされたところを見ると、どうも実在論に関する認識が食い違っているようだ。以下に私が理解している「実在論」について述べてみよう。
認識とは独立して存在すると考えるのが実在論
ものごとが認識とは独立して存在すると考えるのが実在論であり、認識や存在に関して深く考えたことがない人は、ほとんどが実在論で考える。だが、認識や存在に関して深く考えると実在論の根拠はきわめて薄弱なことがわかる。
人間の認識とはテレビの画面を通してものごとを見るようなもの
人間の認識とはテレビの画面を通してものごとを見るようなもので、直接に対象をありのまま認識することはできない。あくまで目や耳といった感覚器官を通してのものであり、紫外線や赤外線を見ることはできないし、超音波や超低周波音を聞くこともできない。機械の助けを借りても、その機械自体の限界が存在するから、ありのまま認識するということはできない。
現実に存在するからテレビの画面に映っているのだと考えるのが実在論である。それに対して、よくできたコンピュータグラフィックかもしれないし、テレビカメラのレンズの傷かもしれないから、現実に存在するとは言えないという考えもある。私の考えは後者である。
存在は認識に依存し、認識は理論に依存する
「そこにイヌがいる」という存在命題の真偽は、「そこにいるものはイヌである」という認識命題の真偽に依存する。「そこにいるものはイヌである」という認識命題の真偽は、「イヌとは何か」という理論に依存する。理論は人間が生み出したものである。人間が生み出した理論に存在は依存している。
人間の認識と独立した存在の真偽は不明である。私が実在論をとらないのは、真偽を明確にすることのできない宗教的議論に深入りする気がないからである。