合理的であろうとすることの非合理性

コストは全てにかかる

「効率的市場」という場合に私が一番違和感を感じるのは、その市場そのものを運営するためのコストがどこにも登場しないことだ。しかしこれは無料じゃないことは明らかで、そして誰が運営しているかといえば市民であり政府である。

同様のことは、ミクロ経済においても言える。
人間の脳は最もカロリー消費の高い器官の一つだし、現代の企業にとってコンピュータのハードウェアやソフトウェアに対する投資は支出のかなりの部分を占める。

判断の精度を上げれば上げるほどコストは増大する

判断の精度を上げようとすればするほど、より正確なデータがより多量に必要になる。そのデータを得るためのコスト(時間も含む)もそのデータを処理するためのコストもより増大する。
したがって、判断の精度を上げていくと、どこかで正しい判断による効果を正しい判断のための効果コストが上回るようになる。

現実の人間や企業は超越者ではない

現実の個人や企業は、現実に何ら影響を与えず、コストも時間もかけずに計測し、計算する、などという「ラプラスの悪魔」のような超越的能力を持たない。超越的能力を持たない以上、人間の合理性は不完全なものであり、せいぜい近似的なものでしかない。

「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということわざがあるが、合理性もまさにそうである。合理的であろうとし過ぎるのは、まさに非合理性に起因している。