宗教と化している経済学

実験や計算がダメです、間違っています、というような指摘は、これは学問なのですから当然あってしかるべきでしょう。ならば、指摘するべき事実を挙げていけば済むだけで、その指摘が正しいのであれば大多数の学者も「その通りだ」と認めることになるでしょう。そういう手続や議論を経ることなく、例えば「これは間違いなくトンデモだ」みたいな批判はどうよ?、と思うわけです。

宗教と化しているからだろう、少なくとも、その人たちにとっては。以前、以下のようなことを書いた。

「経済学の学士号さえ持ってない」ことのどこが悪いのだろうか。大事なのは言っている内容が正しいか否かであって、Ph.Dの有無など関係ない。むしろ、そうしたことを話題にすればするほど経済学の権威は下がる。

しばらく前の実例で言えば、化学の学士号さえ持ってない人物にノーベル化学賞が与えられたが、それで化学やノーベル化学賞の権威が下がったなどと聞いたことがない。

実証や論理を軽視するのは、経済学信奉者だけでなく、経済学者にも言える。

経済学における議論は、ともすれば、イデオロギー的、宗教的になることが珍しくない。それは、経済学における論証の方法が宗教的だからである。

一般の自然科学においては、ある理論、法則の根拠となるのは、再現性のある事実である。例えば、相対性理論は真空中の光の速さが一定である事実から導き出される。それに対して、経済学ではそれ自体が論証の必要性のある「仮説」から導き出されていることが多い。その「仮説」を肯定する事実が乏しい場合どころか、否定する事実が多く得られているケースも少なくない。そのような「仮説」に固執する点で経済学は宗教的と見なされてもしかたない。

均衡モデルにおける右上がりの供給曲線は、生産量を増やすに従い単位あたりの利潤が低下するという、収穫逓減を根拠としている。だが、収穫逓減はそれを裏付ける事実に乏しいどころか、それを否定する事実がいくらでもある。

「経済学者は理論の実証を放棄しているという主張が、どうして出てくるのかさっぱり理解できない」とsvnseedsさんのエントリが書かれていたが、こと、ミクロ経済学ミクロ経済学者については、「理論の実証を放棄している」と言われてもしょうがないように思える。なぜならば、トヨタ生産方式TOCのように、均衡モデルにおける供給曲線と全く相容れない考えが広く主張、実践されているのに、それに対して何の反論もなされている気配がないからである。