「押下する」と「押す」は意味が違う

“押下する”という言い方』に関するコメントで「押す」でいいというようなコメントがあったが、「押下する」と「押す」は意味が違うので必ずしも、「押す」に統一できない。

わかり易い例は、物理的ボタンで下がりっぱなしになるものがある。上げるためには、別のボタン等を操作する必要がある。この場合、一度「押下する」と上げる操作をするまで、「押下する」ことができなくなる。「押す」ことはできても「押下する」ことはできない。

もちろん、現在の多くの画面インターフェースでは、物理的に下がるわけではない。しかし、状態が変わって、同じアイコン等を操作しても反応しなくなるものは少なくないと思う。

ずっと緊縮財政の21世紀の日本

思い違いをしている人々が少なくないようですが、日本は、21世紀になってずっと緊縮財政です。その前から数えると、30年くらい緊縮財政が続いていることになります。

緊縮財政であることの証拠は、低金利です。長い目で見ると、低金利と積極財政は両立しません。一時的、短期的には両立しても、積極財政は金利を押し上げるように作用するため、両立しなくなります。

金利や緊縮財政の明確な基準がある訳ではありませんが、推移等で比較することはできます。1990年代後半頃からの変化等を見ていけば良いでしょう。

なお、ここでは、特に断らない限り、国債として、日本政府発行の円建て国債の固定金利のものを想定しています。

日本は低金利

日本は低金利です。一時期より上がってきましたが、1990年代以前等と比較すれば、低金利であることは明白です。例えば、財務省の「過去の金利情報」等を見れば明らかです。

積極財政を行うと国債の価格が下がる

積極財政を行うと国債の価格が下がります。積極財政を行うということは、政府の支出を増やすということです。税収が増えないのに、政府の支出を増やすためには、国債を増発する必要があります。国債を増発すると、発行済みの国債の価格は下がります。新規発行の国債も支払う金利を増やす等しなければならないので実質的な価格は下がります。

逆の状況ですが、昨今のコメの高騰を考えてもらえば分かると思います。供給が少なければ価格は上り、供給が多ければ価格は下がります。

国債の価格が下がることは国債金利が上がること

国債の価格が下がることは国債金利が上がることです。これは、因果関係ですらありません。価格という観点から見るか、金利という観点から見るかの違いに過ぎません。シーソーを横から見て、右が下がると見るか、左が上がると見るかのレベルです。

例えば、価格が800万円で償還時(政府への引き渡し時)の価格1,000万円の国債金利の合計は200万円です(単純化の為、中途での利払い等は無視しています)。価格が500万円で、他の条件が同じなら、金利の合計は500万円です。価格が1,000万円なら、金利の合計はゼロです。このように、国債の価格と国債金利は全く逆の動きになります。

積極財政を行うと、国債の発行が増えて国債の価格が下がります。つまり、国債金利が上がることになります。

金利と積極財政を両立させようとすると、深刻な副作用を生む

一時的、短期的には、低金利と積極財政を両立させることも可能です。国債を大量に買い続けることて、見かけ上の国債の需要を作り出すことは可能です。金利を下げるためには、そのようにする必要があります。しかし、ずっとそれを続ける訳にはいきません。低金利は続けられても、それにより市場に投入された資金の行き場が問題になります。

一般的なモノに向かえば、デマンドプルインフレとなります。不動産や株に向かえば、不動産や株のバブルとなります。実際、1980年代から1990年代初め頃のバブルの原因として、低金利を挙げる人々は少なくありません。『バブル景気』や『1980年代のバブル経済の成り立ちと崩壊の歴史から学ぶ投資の教訓』を参照ください。

発行額の推移は経済規模の推移に影響される

積極財政か否かは、国債の発行額の推移で分かるはずと主張する人もいるかもしれません。しかし、発行額の推移は経済規模の推移にも影響されます。経済規模が成長すれば、それだけで国債の発行額が増えるはずです。従って、国債の需要と供給の相対的な比率に左右される、国債の価格の方が適切と考えます。

追記

訂正(2025/05/12):一時期的→一時的

ファイル名に関する誤解

何故拡張子が四桁のファイルが存在するんですか』というエントリーを見つけたのだが、誤解があるようです。

「ファイル名が同じでも拡張子がjpegとjpgで違うファイル扱いになるのは納得いかねぇよ」とありますが、ファイル名が同じというのが誤解です。現在のほぼ全てのOSにおいて、「.」の前後全てを含めてファイル名です。aaa.jpgとaaa.jpegはファイル名が異なりますから別のファイルであることは当然です(同一のファイルに複数のファイル名を付けるといったマニアックなことはここでは除外します)。

「.」の後ろに拡張子を付けるというのは、Windowsの前のMS-DOS、その前のCP/Mから継承したものに過ぎません。

基となるファイルのファイル名に「.」と識別するsuffixを付けて、新たなファイルのファイル名とする慣習は、UNIXでもあったので、これらかも影響を受けていると思います。

Mac OSについても、DarwinというUNIX系OSの流れをくんでいます。Androidは、UNIX系OSLinuxの一種となります。

右上がりの供給曲線は存在しない

右上がりの供給曲線の非現実的な仮定』で供給曲線が非現実的であることを説明しました。そこで、事実として、供給曲線に対する反証を挙げたいと思います。

各々の供給者は、需要の制約に直面しています。また、企業は限界費用一定と見なせる条件下で活動してます。現実の市場は、小さな独占市場の集まりと見なせます。『右上がりの供給曲線の非現実的な仮定』で挙げた仮定は、何一つ現実には当てはまらないと言っていいほどです。

多くのミクロ経済学者は、各々の供給者における需要の制約を否定しているので、大野耐一の『トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして』やエリヤフ・ゴールドラットの『ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か』を全く否定しているということになります。また、黒字倒産についても、ほぼ否定していることになります。

基礎的な経営分析である損益分岐点分析についても否定していることになります。

需要は有限で、需要以上に作っても損が増えるだけ

右上がりの供給曲線の「各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる」という仮定と異なり、各々の供給者にとって、需要は有限で、需要以上に作っても損が増えるだけです。需要が有限である証拠の一つは、「ミクロ経済学が間違っている証拠」で挙げている「多種多様な商品が売り切れることなく、店頭に 並べられている」ということです。各々の供給者にとって、供給能力が需要の数量を上回っていることを示します。需要の制約により供給が制限されていることを示します。

店頭に並べられている商品は、店頭在庫ともよばれますが、これらは、一種の売れ残りです。一般的な意味での売れ残りではありませんが、売り出しているのにまだ売れていないという意味では売れ残りに違いありません。売れ残りがあるということは、供給能力が一時的にせよ、需要の数量を上回っていることを示します。「各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる」が成り立っていないことを示します。

需要の数量以上に作っても損が増えるだけです。各々の供給者は、供給者にとっての需要の数量以上供給しても、売ることができず、作れば作るほど損が増えるだけです。今日売れなかった分をを明日に回す、といったこともできません。供給曲線や需要曲線における数量とは、厳密に言えば、単位時間あたりの数量であり、明日は明日の分の供給の数量があるからです。需要の数量を超えた分は、差し引きで考えると、永久に売ることができない計算になります。供給の数量を需要の数量との差以上に減らして、過剰になった分を相殺するしかありません。

大野耐一の『トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして』には、「作りすぎのムダ」という言葉が出てきます。また、エリヤフ・ゴールドラットの『ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か』では「倉庫をいっぱいにすることが目的で物を作る」という表現が出てきます。どちらも、売れる以上に作ることは、有害であると見なしています。

つまり、多くのミクロ経済学者は、「大野耐一エリヤフ・ゴールドラットは間違っている。作れば作っただけ売れる」と主張していることになります。

また、黒字倒産という言葉があります。黒字倒産の原因の一つは、「作りすぎ」による過剰在庫、不良在庫です。在庫は資産として扱われます。したがって、一般に在庫が増えても赤字が増えることにはなりません。しかし、在庫の段階では原材料や加工の費用を回収できません。在庫が増えるとキャッシュフローが圧迫されます。最悪、黒字倒産という結果に陥ることになります。多くのミクロ経済学者は、少なくとも、在庫の増加による黒字倒産なんて起きるはずがないと主張していることになります。

損益分岐点分析では限界費用一定と考える

右上がりの供給曲線の「限界費用逓増である」という仮定と異なり、損益分岐点分析では限界費用一定と考えます。損益分岐点分析は、基礎的な経営分析の一つです。

多くのミクロ経済学者は、損益分岐点分析は間違っていると主張していることになります。

共通部品等は限界費用一定と考えないと費用が計算できない

共通する、間接部門や部品、原材料等の費用は、限界費用一定と考えないと費用が計算できません。

各商品に共通する部品等の費用を各商品にどのように配分すべきか、考えてみましょう。一般に、部品等に価格が付けられている単位は、商品に価格が付けられている単位とは別です。したがって、その商品にその部品等の費用の相当額を計算して配分することになります。その場合、生産量に比例する、限界費用一定な変動費と固定費の和と考えないと、費用が計算できません。変動費が生産量に比例しないと、変数の数が式の数を上回って、方程式が解けません。

この部品の分の費用はいくら、この原料の分の費用はいくら、というように、ボトムアップで費用を計算しようとしてみましょう。すると、個々の「部品の分の費用」といった費用が、固定費と生産量に比例する変動費の仮定の下で計算されていることがわかります。つまり、個々の部品の費用自体が限界費用一定の仮定の下で計算されているということです。各々の部品の費用が限界費用一定なので、その合計も、限界費用一定ということになります。

限界費用一定は、費用を計算するための前提であるということです。

現実の経済は独占市場の集まり

現実の経済は独占市場の集まりと見なせます。事実上一つの独占市場からなる場合もあれば、小さな独占市場が多数集まっている場合もあり得ます。但し、各々の独占市場の境界付近では、安いところで買って、高いところで売るといった、裁定取引から働きます。そのため、純粋な独占市場が集まった場合とはやや異なります。

独占市場の集まりとなる理由は、簡単です。各々の需要家は、ある程度の狭い範囲しか移動しないからです。『個々の需要家は一人の供給者からしか買わない』で述べたように、各々の需要家が行ったことのあるコンビニエンスストアは、日本にあるコンビニエンスストアの1%にも満たないでしょう。そのように、各々の需要家は、限定された供給者しか相手にしません。さらに、需要家の移動により、別の需要家に変わるかのように見なす等の扱いをすると、各々の需要家がただ一人の供給者からしか買わないかのように見なすことができます。そうすると、現実の経済は、独占市場の集まりと見なすことができます。

なお、ここでは、一般的な商品の市場を想定しています。労働市場に関しては、需要家と供給者の数の関係が一般的な商品と逆なので、買い手独占等と呼ばれる、需要家と供給者の対応が逆な独占市場の集まりになると見なせます。

右上がりの供給曲線はミクロ経済学者の願望の産物

右上がりの供給曲線はミクロ経済学者の願望の産物と言ってもいいでしょう。天動説における周転円のようなものです。天動説においては、惑星の動き等を説明するため、従円という円軌道を多重に回る、周転円というものを想定していました。地動説における月の軌道を考えると理解し易いかもしれません。右上がりの供給曲線は上がりの供給曲線は、この周転円のようなものです。均衡モデルという天動説を成り立たせるために、右上がりの供給曲線という周転円を考案したと言えるでしょう。

右上がりの供給曲線の非現実的な仮定

右上がりの供給曲線は基礎的なミクロ経済学の本の冒頭付近に出てきます。しかしながら、右上がりの供給曲線は反現実的と言えるほど非現実的な仮定の下で成り立っており、現実の経済では、ほぼ成り立ちません。

右上がりの供給曲線は、以下のような仮定の下で成り立っています。

  • 各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる。
  • 限界費用逓増である。
  • 完全競争市場である。

各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる

右上がりの供給曲線が存在するためには、各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせければなりません。生産したものが全て売れなければなりません。売れなければ、生産しない方がまだマシです。売れなければ、生産するのに要した原材料や加工の費用がムダになります。つまり、各々の供給者にとって、需要の数量は供給の数量以上でなければならないということです。供給者側が需要を制御する方法は一般に存在しません。したがって、需要の数量が生産の数量以上であるようにするには、各々の供給者にとって、需要の数量が無限大である必要があります。厳密には、供給者がそのように行動すればいいということです。供給者にとって、需要の数量が無限大であるかのように見なせれば良いということになります。

限界費用逓増である

「各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる」のであれば、限界費用逓増でないと、生産の数量が増える程、利潤が増えることになってしまいます。コスト割れの低価格でない限り、どんな価格でも生産の数量が無限大ということになってしまいます。

生産量が単位量増えた時の費用の増分である限界費用が逓増でないと、ある価格において、ある生産の数量で利潤が最大になるということは起こりません。限界費用一定や限界費用逓減であれば、生産の数量が増える程、利潤が増えることになってしまいます。

完全競争市場である

「各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる」が成り立つためには、完全競争市場でなければなりません。市場全体の需要の数量の合計が有限であることは明らかです。その一部である各々の供給者にとっての需要の数量も厳密に言えば有限です。「各々の供給者にとって、需要の数量は無限大と見なせる」が成り立つには、各々の供給者にとっての需要の数量が、各々の供給者の供給の数量より、比較にならないほど大きい必要があります。これを満たす、理論的なものが完全競争市場です。

補足

供給という言葉だけだと、供給しようとする事前的な供給と、供給した事後的な供給の区別ができません。そのため、このエントリーでは、前者には、生産という言葉を使っています。生産も供給も、ものだけでなく、サービスも含みます。

所得は支出の結果(2)

所得は支出の結果』の補足です。

所得は支出の結果』であることは、経済学の「三面等価の法則(「三面等価の原則」とも)」と取引の仕組みをきちんと考察するだけで出てきます。

所得は支出に等しい

所得の値は支出の値に等しくなります。「所得=支出」であることは、経済学の「三面等価の法則」から明らかです。この式は、GDP(Gross Domestic Product、国内総生産)に関する事後的な恒等式です。取引終了時点で考えると、理論的には、常に式が成り立つということです。GDPについて、所得の値は支出の値に等しくなるように定義されていると言い換えることもできます。

もちろん、現実にはミスや不正があるので、完全に一致することはまずありません。しかし、もし、ミスも不正もなかったとしたら、完全に一致することになります。

一般に、GDPは、一年間の値で表しますが、一年間というのは、慣習に過ぎません。単位時間当たりの値であり、理屈の上では、1か月や1週間、1日単位のGDPすら可能です。時速36kmが秒速10mであるようなものです。実際、日本のGDPの速報値は、3か月単位で公表されています(厳密には季節調整済みの値です)。

GDPを単位時間で区切るだけでなく、個々の取引で区切ることも、理屈の上では可能です。個々の取引に区切っても、「三面等価の法則」は成り立ちます。つまり、個々の取引においても、「所得=支出」であるということです。

個々の取引においても、「三面等価の法則」が成り立っていることは、数学的にも証明できます。三面等価が成り立っていない取引があると仮定します。1年間の取引で三面等価が成り立っているとします。そこに、三面等価が成り立っていない取引を追加します。すると、1年間の取引で三面等価が成り立たないことになります。これは、三面等価恒等式であるということに反します。つまり、個々の取引についても、三面等価が成り立っているということになります。むしろ、個々の取引において、「三面等価の法則」が成り立っているので、1年間の取引をまとめても、「三面等価の法則」が成り立つと考えるべきでしょう。

一つもしくは少数の取引のみ考えれば良い

一つもしくは少数の取引のみ考えれば、GDPに関する経済的仕組みを考えるのに十分です。個々の取引も「三面等価の法則」を満たしており、取引の回数が増えると、合計の値が増えるに過ぎません。関係を理解するだけなら、代表的な、一つもしくは少数の取引のみ考えれば十分です。

個々の取引は支出したから成り立つ

個々の取引は支出したから成り立ちます。取引が成り立ったから所得が得られます。こう考えていくと、支出の結果が所得であるということになります。もちろん、供給者側が商品(以下、サービスも含む)を提供しなければ、取引は成り立ちません。しかし、商品を提供しただけでは、取引における価格は決まりません。供給者側は、価格を提示できますが、その価格を受け入れて取引を成り立たせるのは需要家側です。供給者側は、「安過ぎる、売らない」と取引しないことはできても、買って取引を成り立たせることを強制することは、基本的にできません。

もちろん、供給者側が商品を提供しない場合、取引は成り立ちません。しかし、需要家側が価格を承認しない場合も取引は成り立ちません。価格を承認して取引を成り立たせる決定権は、需要家側にあります。需要家が支出した結果、所得が生じます。

生産性に関する錯覚(2)

生産性に関する錯覚』の補足です。

生産性に関する錯覚』では、「生産量が生産性に依存する場合も生産性が生産量に依存する場合もある」と書きました。昨今の日本について言うなら、多くが後者です。したがって、マクロ経済の観点から言うなら、生産性を上げてもほとんど意味がありません。むしろ、逆効果になるおそれすらあります。

生産性を上げろと言うのは、供給者側の経営者か、彼らの代弁者です。いわゆる、ポジショントークに過ぎません。日本経済全体を見ているのではなく、自己の短期的な利益を言っているだけです。

生産量が生産性に依存する場合は商品の価格が上がる

生産量が生産性に依存する場合は商品の価格が上がるように作用します。なぜならば、商品の価格の上昇が需要を抑制して、不足している生産量が需要の数量に釣り合うように作用するからです。

逆に、生産性が生産量に依存する場合は商品の価格が下がるように作用します。

需要家が求めるものは、生産物であり、生産量である

需要家が求めるものは、生産物であり、生産物の数量の和としての生産量です。需要家は、生産性を求めていません。そもそも、認知できません。需要家にとって、価格や生産量に影響を与えない限り、生産性はどうでもいいことに過ぎません。

デフレは生産量が需要を上回っていることを示す

デフレは生産量が需要を上回っていることを示します。経済全体として、大部分の商品の供給の数量が需要の数量を上回るような状態にあることを示します。