ミクロ経済学こそ非合理的

非合理的な行動を基礎にしているミクロ経済学のモデル

ミクロ経済学の均衡モデル等のモデルには、致命的な欠陥があります。それは、取引相手の区別が欠けており、非合理的な行動をすることを基礎にしたモデルになっていることです。合理的な行動をとれないモデルになっていると言った方が適切かもしれません。費用最小化の原則や限界原理に反する行動がミクロ経済学の基礎になっています。現実の経済では、一般的に取引相手を区別しています。取引相手を区別する方が合理的だからです。取引相手を区別せず、同じ商品であれば無差別的に扱うミクロ経済学のモデルは、非合理的な行動をすることを基礎においているモデルです。

取引相手の区別が欠けているミクロ経済学のモデル

部分均衡モデルや一般均衡モデルといったミクロ経済学のモデルには、取引相手の区別がありません。部分均衡モデルには価格と数量だけです。一般均衡モデルには、商品の種類がありますが、やはり取引相手の区別はありません。取引相手によって区別した行動はやりようがありません。

合理的な行動には、取引相手の区別が必要

意識的、無意識的に行っている取引相手の区別

現実の経済では一般に取引相手による区別を行っています。意識的な区別だけでなく、無意識的にも取引相手による区別を行っています。

例えば、以下のような条件で、ある商品を2個買うとしましょう。

  • 2軒の店、店Aと店Bがある。
  • 買いたい商品は、店Aと店Bに各々2個ずつある。
  • 店Aと店Bで、価格や店までの距離、割引等、特に差は無い。

この条件下では、現実の経済であれば、店Aで2個買う確率、店Bで2個買う確率、各々、2分の1となります。それに対して、無差別に扱うモデルでは、店Aと店Bで1個ずつ買う確率が3分の2になります。店Aで2個買う確率、店Bで2個買う確率、各々、6分の1となります。現実の経済では、無意識的に取引相手を区別しているため、無差別に扱う場合とは全く異なる行動になります。あまりにも無意識的なので、取引相手を区別していることをほとんど全ての人が気づきません。

取引相手を区別することは合理的

上記の例で取引相手を区別する理由は簡単です。同じ取引相手から買った方が、移動や輸送等の取引に付随する費用(時間等も含む)が、節約できるからです。費用最小化の原則や取引に付随する費用における限界原理に従えば、一般に、取引相手を区別することが合理的になります。

ミクロ経済学において、取引相手を区別していないのは、移動や輸送等の取引に付随する費用がゼロ(数学的な意味で)であるモデルを使用しているからです。取引に付随する費用がゼロであれば、ゼロにいくらかけてもゼロなので、何回取引しても取引に付随する費用はゼロであり、取引相手を区別しなくても問題ありません。しかし、現実の経済では、取引に付随する費用はゼロになりません。取引相手を区別して取引に付随する費用を節約するのが合理的です。

取引相手を区別していないというのを別な観点から見れば、ミクロ経済学におけるモデルは、売り手も買い手もたった一人しかいないモデルであると言えるかもしれません。

基礎的な間違いがあるミクロ経済学のロジック

「取引に付随する費用がゼロであるミクロ経済学のモデル」における法則を「取引に付随する費用がゼロではない現実の経済」に適用してしまっているのが、ミクロ経済学の間違いです。

「空気が無い真空中では、木の葉も石も同じように落下する。したがって、空気がある場合も、木の葉も石も同じように落下する」という形式のロジックになっているのが、ミクロ経済学です。「空気が無い真空中では、木の葉も石も同じように落下する」も「取引に付随する費用がゼロである場合は取引相手を区別しないことが合理的」も正しいです。しかし、「空気がある場合も、木の葉も石も同じように落下する」は、もちろん、「取引に付随する費用がゼロでない場合も取引相手を区別しないことが合理的」も正しくありません。

ニュートン力学でも、摩擦の無いモデルを基礎に考えるではないか、それと同様に考えているだけだ、といった反論があるかもしれません。しかし、ニュートン力学では、摩擦が有っても無くても成立する法則を基礎にしており、説明が簡単になるため、摩擦の無いモデルを使用しているに過ぎません。
他の自然科学における理想化したモデルも同様です。例えば、理想気体における法則は、理想気体でなくても気体であれば成立するものとされており、現実の気体が理想気体における法則から外れて見えるのは、理想気体でないことも結果に影響しているからです。


取引に付随する費用がゼロではない現実の経済においては、取引相手を区別することが一般に合理的な行動であり、取引相手を区別しないミクロ経済学のモデルでは、合理的な行動をあらわすことは一般にできません。

国内総所得における貯蓄の実体は実物資産

ISバランス論における根本的な間違いは、GDI(国内総所得)における貯蓄を現金や預金といった金融資産(の増加)と誤解していることにあります。GDIにおける貯蓄は、設備等の実物資産(の増加)です*1。設備等の実物資産が増えるのは、投資という行為の結果です。貯蓄の実体が実物資産であることを理解すれば、ISバランス論が基本的なところで間違っているのは明らかです。

以下の点から、GDIにおける貯蓄の実体が、基本、実物資産の増加であることがわかります。

  • 金融資産は、マクロ的には恒等的にゼロであると見なすことができる。
  • 消費(C)の増減は、貯蓄(S)と直接的には無関係。
  • 貯蓄(S)と投資(I)は、税(T)と政府支出(G)がバランスした、閉じた経済では等しい。
  • 消費と投資の違いは、購入するものが消費財か実物資産という違い。

金融資産は、マクロ的に見ると恒等的にゼロ

負債を負の金融資産と見なすと、金融資産は、債務と債権は常に同額であるため、マクロ的に見ると閉じた経済では恒等的にゼロです。紙幣(日本銀行券)は日銀の債務であり、預金は銀行の債務なので、対応する債務を含めた、現金や預金のマクロ的な合計の資産価値は常にゼロであると見なすことができます*2。マクロ的に見ると恒等的にゼロである金融資産とGDIにおける貯蓄は、全くと言っていいほど別のものです。

また、消費や投資といった取引において、現金や預金は、支払い側の減少と同じだけ受取り側が増加するので、現金や預金の合計は、取引の前後で増減しません。この点からも、現金や預金とGDIにおける貯蓄は別のものです。

消費(C)の増減は、貯蓄(S)と直接的には無関係

基本的な誤解をしている人も多いようですが、消費(C)の増減は、ISバランス式と直接的には無関係です。消費(C)が増減しても、ISバランス式の各変数の値は直接的な影響は受けません。「消費(C)が減少すれば貯蓄(S)が増える」とかいうのは間違いです。ISバランス式の導き出し方をきちんと理解すれば、消費(C)の増減がISバランス式と直接的には無関係であることも理解できるはずです。

              (S-I) = (G-T) + (EX-IM)

上記のISバランス式は、下記のGDI、GDE(国内総支出)の式から導き出されます。

                  Y = C + T + S
                  Y = C + I + G + (EX-IM)

GDI、GDEの式から以下のような手順で、ISバランス式を導き出します。

  1. GDIの右辺(C+T+S)をGDEの左辺に代入。
  2. 両辺のCを相殺。
  3. 左辺のTを右辺に移項。
  4. 右辺のIを左辺に移項。

「両辺のCを相殺」しています。消費(C)の値は、相殺されるため、ISバランス式に直接的な影響を与えることはありえません。消費(C)が増減しても、消費(C)は、GDIとGDEの両方にあるため、Yが増減するだけで、他には、直接的な影響は与えません。

また、個々の取引から見ても、消費(C)の増減は、貯蓄(S)と直接的には無関係です。消費することにより、消費した側の貯蓄は消費の分だけ減少します。しかし、その消費した商品やサービスを提供した側では、所得が、すなわち、貯蓄が消費の分だけ増加します。したがって、合計の貯蓄(S)は、増減しません。

貯蓄(S)と投資(I)は等しい

消費が貯蓄に直接的な影響を与えないのに対して、投資(I)と貯蓄(S)は、税(T)と政府支出がバランスして、かつ、閉じた経済では等しくなります。したがって、貯蓄(S)は、消費と投資の違いより生じると言えます。

消費と投資の違いは、購入するものが消費財か実物資産か

消費と投資の違いは、一点だけです。消費の場合は消費財を、投資の場合は実物資産(資本財)を購入するという違いです。消費の場合は、金融資産と消費財の交換なので、消費した側は金融資産の減少分だけ資産額が減少します。投資の場合は、金融資産と実物資産の交換なので、投資した側は金融資産の減少と実物資産の増加が相殺し、資産額は変化しません。この増加した実物資産こそ、貯蓄の正体です。

*1:赤字国債や経常黒字による外貨の分を除きます。

*2:硬貨は何故か発行元の政府の債務の扱いになっていないようですが。

所得と支出は同じもの

現在の欧州危機の事実上の震源地となっているドイツ(ギリシャではなく)では、憲法連邦政府と州政府の双方に均衡予算の維持を求める債務ブレーキ制度を組み込んだことで、ギリシャ救済に対する国民の支持は全く得られず、ユーロ発行権を持つECBもドイツの意向は無視できない可能性がありますので、経済的にはトヨタを擁する愛知県より経済規模が小さいギリシャの救済が最善手と解っている欧州政治家やECB・IMFギリシャ救済を見送り、1990年代以降何度も繰り返された緊縮ポピュリズムへの政治迎合タイプの流動性危機が今回も繰り返される可能性は少なからずあるのではないでしょうか。

マクロ的に見れば所得と支出は同じものです。こうした緊縮ポピュリズムのような考えに陥るのは、それが理解されていないからでしょう。もう少し分かりやすく言うなら、所得と支出の違いは同じものをどちら側から呼んだ名称かの違いです。お金を受け取る側から呼んだ名称が所得で、支払う側から呼んだ名称が支出です。

支出を減らせと言うのは、所得を減らせと言うことです。所得が減れば、返済はますます遅延します。緊縮ポピュリズムは、お互いの苦しみを長引かさせるだけです。

経済学という砂上の楼閣

そして1870年代、 限界革命を主導したひとり、レオン・ワルラスは、実際上あるいは歴史上ほとんど観察されない物々交換を出発点に、より複雑な経済関係を継ぎ足し経済学説を構築しました。その結果、静態理論とは「物々交換経済」という架空の想定に基づくため現実経済とは離れた純粋に理念的産物となりました。

経済学が現実経済とかけ離れているのは、「物々交換経済」という架空の想定のせいではなく、経済学が取引に関わるコストがゼロであることを前提としたものになっているからでしょう。現実の経済では、時間を含め、様々な取引に関わるコストがかかります。しかし、完全競争市場等の経済学のモデルには、商品の代価以外はあらわれません。

物理学などの自然科学で、単純化のために、摩擦が無い、不純物が無い、といったモデルを使うのと同じであると考える人もいるかもしれません。
しかし、大きな違いがあります。自然科学では、摩擦が無い、不純物が無い、といったモデルを*基礎*にはしますが、*前提*とはしません。摩擦が無いモデル、不純物が無いモデルを作っても、現実の自然現象について考える時は、摩擦の影響、不純物の影響を考慮します。経済学で行われるように、摩擦が無い、不純物が無い環境下での結果をそのまま当てはめるようなことはしません。

空気が無ければ木の葉も石も同じように落下します。それを基に空気があればどうなるのかを考えるのが自然科学の手法であるのに対して、いきなり、空気があっても木の葉も石も同じように落下する、と論理的飛躍を行なってしまったのが経済学です。

因果関係と相関関係の取り違え

因果関係と相関関係の区別ができていない人は多いです。下記のエントリなど、まさにそうです。

だが、筆者はジャンクフードやファーストフードに依存した少年らの食生活が、少年凶悪犯罪を生み出している大きな要因だと考えている。

「ジャンクフードやファーストフードに依存した少年らの食生活」ではなく、「ジャンクフードやファーストフードに依存した日常生活」をおくるような生活の質的貧しさこそ原因でしょう。

過労死促進法案?

安倍首相は先月20日の衆院予算委員会で「グローバルに活躍する高度専門職に絞っている。今度のは全く別物だ」と強調。働き手の同意を得ることや、働き過ぎを防ぐ仕組みを強化したことも挙げ、批判をかわそうとする。

「グローバルに活躍する高度専門職」にしては、対象者の年収が少な過ぎ……。単なる残業代抑制としか思えません。労使の関係は対等ではないので、企業の側にハンデを負わせないと労働者側が不利になり過ぎます。

お金が天から降ってくると思っている人々

今朝の日経一面に伊藤元重教授らが民間委員の立場で、基礎的収支の年2.5兆円改善提案をしたとか。

誰かの債務が裏付けにならなければそれに見合う資産はないし、経済を回すマネーとは誰かが作った債務の証文(債権)の流れですから、唯一不況でも健全に債務を負えるはずの政府が債務返済に励めば、実体経済はその分悪化しますね。

誰かの債務は誰かの債権です。債務を減らせというのは、債権(財産)を減らせということにほかなりません。お金が天から降ってくるとでも思っていなければ、話に整合性がとれません。