所得と支出は同じもの

所得と支出は同じものです。正確に言うなら、所得と支出は同じものの別々の観点からの呼び名です。所得は商品やサービスを提供する側からの、支出は商品やサービスの提供を受ける側からの呼び名ということになります。債権と債務、輸出と輸入等と類似の関係と言えます。
そのことがあまり理解されていないため、マクロ経済における間違った判断が繰り返されています。

まず、支出ありき

現実にはまず所得(Y)ありきであり、そこから必要なだけ消費され、残りが貯蓄に回されるというのが実際的でしょう。

逆です。まず、支出ありきです。支出はお金を借りて行うことも可能ですが、所得は、支出に対応して生じるだけです。
所得(Y)から消費に回るわけではありません。所得(Y)が生じた時点で対応する支出が行われています。消費することは、所得(Y)を増やすことであって、所得(Y)を取り崩すことではありません。

しかしない袖は振れません。

マクロ経済から言うと、振ることで袖が生じます。

能天気な人々が消費税増税を唱えるというパラドックス

消費税こそ財政再建の敵」と書きましたが、消費税増税を唱える人々は、なかなか減りません。能天気な人々が消費税増税を唱えるというパラドックスがあります。

経済同友会は21日、財政再建に関する提言を発表した。歳入面では2017年4月に消費税を予定通り10%に引き上げるだけでなく、17%まで段階的に追加で増税すべきだと求めた。歳出も社会保障分野の大胆な改革と給付カットが必要だと訴え、年間5000億円のペースでの公費削減に取り組むよう促した。

経済同友会って、お金が天から降ってくると考えている能天気な人々の集まりのようです。誰かが支出を減らすことは、誰かの所得を減らすことです。公費削減は、GDPを減らして税収を減少させる方向に作用します。また、消費税増税は消費を抑制しますから、それも、GDPを減らして税収を減少させます。

要するに、ストックからみてもフローからみても、消費税増税はデフレ化を介して企業の投資意欲を削ぎ、総税収を減らし、政府総債務を増やしているという流れが見えてきます。

皮肉なことに、プライマリーバランス均衡を達成し、政府債務を減らそうと、消費税を増税すればするほど、名目GDPを減らす効果の方が大きく現れ、税収は減り、国債増発は余儀なくされ、財政健全化指標、政府債務残高対GDPは悪化するというわけです。

財政再建には、消費税の減税もしくは廃止こそ望ましいです。財政再建には、消費の抑制効果が高い消費税の増税よりも所得税法人税増税の方が望ましいです。

消費税を増税するとすれば、負の財政政策として、景気過熱の冷却手段と考えるべきです。

ありふれた事実すら無視する経済学

非科学的な経済学

新古典派経済学が科学を冒涜している」と関良基さんが批判しています。

重要なのは、あくまで事実が先で、事実に合わせるようにモデルが決まるということです。事実と合わないモデルは棄却されます。

ところが新古典派経済学のモデルの場合、12434さんの指摘されるように、実態経済とは一致しません。ごくまれに一致しない場合もあるというレベルではなく、ほとんど例外なく一致しないのです。であるにも関わらず、実証的な事実関係と合致しないモデルが教科書に載せられて教えられているというのは、近代科学における科学的思考法とは異なる独特の思考パターンです。それは信仰の次元に近い思い込み、もっといえば原理主義です。

新古典派経済学とか主流派経済学とか呼ばれるものがこのような批判を受けるのは、以下のような欠点を持っているからだと思います。

  • 理論やモデルに合わない不都合な事実を無視する。
  • 論理を軽視する。

このような、非科学的な手法が基礎のレベルで経済学(以降、特に断らない限り、新古典派経済学とか主流派経済学とか呼ばれるもののことです)に蔓延していることが、「科学を冒涜している」といった発言につながります。

非科学的な手法が基礎のレベルで経済学に蔓延しているため、経済学は、ほぼゼロからの再構築が必要です。現在の経済学はある意味天動説より非科学的です。天動説では、事実に合うようモデルが変更され続けました。経済学では、事実が無視され続けています。

既存の理論やモデルに合わない不都合な事実を無視する経済学

既存の理論やモデルに合わない不都合な事実が無視されるというのは、経済学のかなり致命的な欠陥です。本来、既存の理論やモデルに合わない事実というのは、科学においては貴重な宝です。その事実をきっかけとして、新たな理論やモデルが生み出されるからです。また、新たな予想もしなかった事実の発見につながることもあります。したがって、既存の理論やモデルに合わない事実を発見するだけで、科学に名を残し、ノーベル賞等の名誉が得られることがあります。ところが、経済学においては、既存の理論やモデルに合わない事実は、往々にして、意図的か無意識かは別にして無視されがちです。

例えば、以下のような日常的に見られる事実さえ、既存の経済学の理論やモデルに合いません。特に、完全競争市場は、現実の経済とあまりに違うので、「完全妄想市場」と私は呼んでいるほどです。

  • 多種多様な商品が売り切れることなく、店頭に並べられている。
  • 熱い飲食物は冬に、冷たい飲食物は夏に、主に売られる。
  • 同じ商品を複数買う時、同じ店で買う。
経済学では、商品は売り切れて店頭に無いと考える

経済学で通常の市場のモデルと見なされている完全競争市場では、個々の供給者にとっての需要曲線は水平であり、個々の供給者にとって需要は無限大であるかのように近似できることになっています*1。個々の供給者にとって需要は無限大ですから、店頭の商品は売り切れているはずです。そして、完全競争市場では、移動や輸送を含め取引に関するコスト(時間も含む)は数学的な意味でゼロですから、商品の補充も一瞬でできるため、店頭の商品が売り切れて無いことは不都合ではありません。

現実の経済では、個々の供給者にとっての需要曲線は水平ではなく、有限の需要に直面しています*2。また、現実の経済では、商品の補充には時間がかかるため、供給者は、機会損失を生じさせる売り切れを避けようとします。そのため、在庫のコストを背負っても、経済学のモデルと異なり、店頭に商品が並ぶように努めます。

経済学では、熱い飲食物は夏に、冷たい飲食物は冬に、主に売ると考える

完全競争市場では、個々の供給者にとって需要は無限大であるかのように近似できることになっていますので、コストだけが生産量を決定する要素となります。以前、書いたように。
元々の温度が高いほど暖めるコストは減ります。コストだけから言うと、暑い夏こそホットドリンクを売るべきということになります
寒い冬こそ、冷たいものを売るべきということになります。

現実の経済では、需要が制約となっているため、需要の多い季節に売られます。熱い飲食物は冬に、冷たい飲食物は夏に、主に売られます。

経済学では、同じ商品を複数買う時、別々の店で買うと考える

完全競争市場では、同じ商品であれば、購入時に区別しないと考えます、また、供給者の数は無限大であると考えます。その結果、同じ商品を複数買う時、同じ供給者から買う確率は事実上ゼロと見なせます。一つ一つ別々の供給者から買うことになります。移動や輸送を含め取引に関するコストが数学的な意味でゼロである完全競争市場では、買う相手がどんなに多くても関係ありません。ゼロにいくらかけてもゼロです。

現実の経済では、移動や輸送を含め取引に関するコストがかかるため、複数の供給者から買う場合には、単一の供給者から買う場合より余分なコストがかかります。そのため、同じ商品であっても、異なる供給者が扱っている場合、買う際に区別されます*3。現実の経済では、同じ商品を複数買う時、売り切れる場合等を除き、一つの店で買います。

論理を軽視する経済学

経済学では、論理が軽視されています。これは、既存の理論やモデルに合わない不都合な事実が無視されているのと表裏一体です。論理が軽視されている例としては、モデルから導かれた結論がそのまま現実の経済にも当てはまるかのように主張されがちなことが挙げられます。

経済学のモデルでは様々な仮定をおいているのに、その仮定が成り立たない現実の経済でもモデルから導かれた結論が、そのまま主張されたりします。
「空気の無い真空では石も木の葉も同じように落下するので、大気中でも石も木の葉も同じように落下する」
こういう論理(非論理?)が、経済学では往々にして主張されます。「空気の無い真空での落下」を考えることは、自然科学でもよくあります。経済学のおかしなところは、「空気の無い真空での落下」を基に「大気中での落下」を考えようとするのではなく、なぜか「空気の無い真空での落下」と「大気中での落下」が同じだとされてしまう点です。

論理的であることと数学的であることは、ほぼ同じことです。経済学は、数学的に間違いだらけということになります。経済学は、数学的であるかのように誤解されていますが、数学的なのはモデル内部だけです。モデルを現実の経済に適用しようとすると、途端に非数学的、非論理的になります。

*1:『マンキュー経済学? ミクロ編(第3版)』の「図15-2 競争企業と独占企業の需要曲線」等を参照のこと。

*2:需要曲線は右下がり。

*3:区別できないような仕組みになっている証券取引所等における取引を除きます。

原油価格がまだまだ下がりそうな理由

原油価格はまだまだ下がりそうです。

元日銀審議委員で安倍晋三首相の経済ブレーンでもある中原伸之氏は6日、ロイターの取材に応じ、1バレル100ドル台にあった過去数年の原油価格は歴史的に異常な高値で、当面下落が続くと指摘。この先に30ドル台、場合によって20ドル台まで下落しても全く不自然ではないと述べた。

ですが、その理由は。

一方、最近の原油市況は中国経済の成長ペースに連動しており、今後は中国の成長率が5%台などへ減速するなかで、原油価格が本格反転する材料はないとの見通しを示した。

このような需要面より供給面にあります。

むしろ世界の産油国原油価格の下落で予算未達になる分、生産を加速させることすら考えられます。これは古典的な「囚人のジレンマ」です。

原油に関しては、一般に信じられている右上がりの供給曲線とは逆に価格低下が供給を増やすように作用するという面があります。それは、原油の生産が本質的には資産の切り売りであり、産油量を増やして産油可能年数を減らすか、産油量を減らして産油可能年数を増やすかのトレードオフを石油会社や産油国は迫られているからです。そのため、原油価格が上がれば産油量を減らして産油可能年数を増やし、原油価格が下がれば産油量を増やして産油可能年数を減らすという判断になりがちです。以前原油価格の高止まりについて書いたことがありますが、ロジック的には全く同一です。今度はそれが原油価格の下落となって現れただけです。

原油価格が高止まりしている。個人的な見解を述べるなら、その主な理由は、原油の価格が高くなると産油量が減少する傾向があるからということになる。価格の上昇が産油量の減少を引き起こし、産油量の減少が需給の逼迫を引き起こし、需給の逼迫が価格の上昇を引き起こす。というループを構成するからということになる。

なぜ、原油価格が高くなると産油量が減少するのか。それは、原油の生産が本質的には資産の切り売りに他ならないからである。油田における原油の埋蔵量は有限であり、「油田の産油可能年数 = 油田の埋蔵量 ÷ 油田の年間産油量」とおけるから、年間産油量を増やして産油可能年数を減らすか、年間産油量を減らして産油可能年数を増やすかのトレードオフを石油会社や産油国は迫られる。原油価格の上昇は、年間産油量を減らしながら年間の売り上げを増やすことを可能にするから、年間産油量を減らして産油可能年数を増やす方向に進みやすい。

世田谷一家殺害における深刻な思い込み?

東京都世田谷区で2000年12月、会社員宮澤みきおさん(当時44)一家4人が自宅で殺害された事件で、事件の翌朝に犯人が操作したとされていたインターネットの接続記録が、誤作動だった疑いがあることが警視庁への取材でわかった。これまではこの接続記録を根拠に、犯人は翌朝まで現場に居座ったとみられていたが、同庁は夜間のうちに逃げた可能性もあるとみて、目撃証言の精査を進めている。

成城署捜査本部によると、事件が起きたとみられるのは12月30日午後11時半ごろ。宮澤さん宅のパソコンには、翌31日午前1時18分と午前10時の計2回、ネットに接続された形跡があった。このうち1回目は、劇団のウェブサイトなどを閲覧した形跡があった。2回目は宮澤さんが勤める会社のサイトにいったん接続されたが、その後は操作のないまま数分後に自動切断されていた。

31日午前に事件が発覚した際、パソコンのマウスは椅子の上に落ちた状態だった。捜査本部が検証したところ、マウスが落下してボタンがクリックされると、ネットに自動接続されることが判明。この時間帯に宮澤さん宅に入った、第一発見者の親族が誤ってマウスを落とし、誤作動した可能性があるという。

10時間以上も殺人現場に居座り続けるというのは不自然だと思うのですが、これまで誰も疑問に思わなかったのでしょうか?

あさってな心配

「作りすぎのムダ」という言葉が、あります。『トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして』において最初に挙げられているムダが、「作りすぎのムダ」です。モノを作らない工場は潰れますが、モノを作りすぎる工場も潰れます。多くの場合、増やしすぎることも、減らしすぎることも害があります。ミクロ的な経済だけではなく、マクロ的な経済にも当てはまります。ある条件下でうまくいった経済政策を別の条件下でも実施するというのは、バカの一つ覚えにすぎません。

戦中・戦後すぐの高インフレの原因が、当時の大蔵大臣・馬場?一が既にインフレが発生しているにも関わらず軍部の言いなりとなって実行した財政ファイナンスだったことから、マスコミや学者が財政ファイナンスを忌避する理由は解らないでもありませんが、既に熱かった湯をさらに沸かして沸騰した事例だけを引き合いに出して、冷たい湯を温めるのに有効な方法に封印をしたがるというのは、思考停止以外の何物でもないでしょう。

「重度の栄養失調の患者に食べ物を与えるのを、糖尿病になる虞があると反対している」という喩えを思いつきました。確かに栄養過多が続けば糖尿病になりますが、今の日本経済は、栄養失調による衰弱で瀕死の重態です。必要なのは、十分な栄養補給であり、糖尿病の心配は栄養失調を完全に脱した後でするべきことです。

消費税こそ財政再建の敵

消費税の重圧は、「財政再建のための消費税廃止」を本気で考えるレベルに達していると思われます。

消費税増税の悪影響を正しく認識すれば、最低でも、消費税減税が財政再建の選択肢に入ってきます。

1997年の消費税引き上げは、所得税減税を先行させた「村山税制改革」の一部であり、おおむね税収中立的な変化でした。

つまり、所得税を多く払っている高所得者は恩恵を受け、所得税をほとんど、あるいは全く払っていない中低所得者は、負担が増加したということです。
消費性向が高い中低所得者が狙い撃ちになるため、消費税は消費の抑制効果が高く、経済を悪化させやすいということです。

また、相続税法人税もそのころから法律改正ごとに減税されております。(所得税は今回ようやく少し再上昇しましたが)

それらの減税の理由の一つとして、景気対策があげられます。消費税増税による景気悪化が減税実施の引き金です。すなわち、消費税増税こそが、他の税の減税の口実になっています。消費税増税こそが、財政悪化の主な要因と言っても過言ではありません。

今回の消費税増税は、GDPの成長率を単純計算で実質3%近く低下させたと考えられます。消費税増税で消費税の税収は増えても、他の税の税収がそれ以上に悪化すれば、全体の税収は減少します。さらに、景気の悪化に伴う社会保障費の増大も考慮に入れると、「消費税増税による財政再建」というのは、頭の中がお花畑な妄想に見えてきます。