ありふれた事実すら無視する経済学

非科学的な経済学

新古典派経済学が科学を冒涜している」と関良基さんが批判しています。

重要なのは、あくまで事実が先で、事実に合わせるようにモデルが決まるということです。事実と合わないモデルは棄却されます。

ところが新古典派経済学のモデルの場合、12434さんの指摘されるように、実態経済とは一致しません。ごくまれに一致しない場合もあるというレベルではなく、ほとんど例外なく一致しないのです。であるにも関わらず、実証的な事実関係と合致しないモデルが教科書に載せられて教えられているというのは、近代科学における科学的思考法とは異なる独特の思考パターンです。それは信仰の次元に近い思い込み、もっといえば原理主義です。

新古典派経済学とか主流派経済学とか呼ばれるものがこのような批判を受けるのは、以下のような欠点を持っているからだと思います。

  • 理論やモデルに合わない不都合な事実を無視する。
  • 論理を軽視する。

このような、非科学的な手法が基礎のレベルで経済学(以降、特に断らない限り、新古典派経済学とか主流派経済学とか呼ばれるもののことです)に蔓延していることが、「科学を冒涜している」といった発言につながります。

非科学的な手法が基礎のレベルで経済学に蔓延しているため、経済学は、ほぼゼロからの再構築が必要です。現在の経済学はある意味天動説より非科学的です。天動説では、事実に合うようモデルが変更され続けました。経済学では、事実が無視され続けています。

既存の理論やモデルに合わない不都合な事実を無視する経済学

既存の理論やモデルに合わない不都合な事実が無視されるというのは、経済学のかなり致命的な欠陥です。本来、既存の理論やモデルに合わない事実というのは、科学においては貴重な宝です。その事実をきっかけとして、新たな理論やモデルが生み出されるからです。また、新たな予想もしなかった事実の発見につながることもあります。したがって、既存の理論やモデルに合わない事実を発見するだけで、科学に名を残し、ノーベル賞等の名誉が得られることがあります。ところが、経済学においては、既存の理論やモデルに合わない事実は、往々にして、意図的か無意識かは別にして無視されがちです。

例えば、以下のような日常的に見られる事実さえ、既存の経済学の理論やモデルに合いません。特に、完全競争市場は、現実の経済とあまりに違うので、「完全妄想市場」と私は呼んでいるほどです。

  • 多種多様な商品が売り切れることなく、店頭に並べられている。
  • 熱い飲食物は冬に、冷たい飲食物は夏に、主に売られる。
  • 同じ商品を複数買う時、同じ店で買う。
経済学では、商品は売り切れて店頭に無いと考える

経済学で通常の市場のモデルと見なされている完全競争市場では、個々の供給者にとっての需要曲線は水平であり、個々の供給者にとって需要は無限大であるかのように近似できることになっています*1。個々の供給者にとって需要は無限大ですから、店頭の商品は売り切れているはずです。そして、完全競争市場では、移動や輸送を含め取引に関するコスト(時間も含む)は数学的な意味でゼロですから、商品の補充も一瞬でできるため、店頭の商品が売り切れて無いことは不都合ではありません。

現実の経済では、個々の供給者にとっての需要曲線は水平ではなく、有限の需要に直面しています*2。また、現実の経済では、商品の補充には時間がかかるため、供給者は、機会損失を生じさせる売り切れを避けようとします。そのため、在庫のコストを背負っても、経済学のモデルと異なり、店頭に商品が並ぶように努めます。

経済学では、熱い飲食物は夏に、冷たい飲食物は冬に、主に売ると考える

完全競争市場では、個々の供給者にとって需要は無限大であるかのように近似できることになっていますので、コストだけが生産量を決定する要素となります。以前、書いたように。
元々の温度が高いほど暖めるコストは減ります。コストだけから言うと、暑い夏こそホットドリンクを売るべきということになります
寒い冬こそ、冷たいものを売るべきということになります。

現実の経済では、需要が制約となっているため、需要の多い季節に売られます。熱い飲食物は冬に、冷たい飲食物は夏に、主に売られます。

経済学では、同じ商品を複数買う時、別々の店で買うと考える

完全競争市場では、同じ商品であれば、購入時に区別しないと考えます、また、供給者の数は無限大であると考えます。その結果、同じ商品を複数買う時、同じ供給者から買う確率は事実上ゼロと見なせます。一つ一つ別々の供給者から買うことになります。移動や輸送を含め取引に関するコストが数学的な意味でゼロである完全競争市場では、買う相手がどんなに多くても関係ありません。ゼロにいくらかけてもゼロです。

現実の経済では、移動や輸送を含め取引に関するコストがかかるため、複数の供給者から買う場合には、単一の供給者から買う場合より余分なコストがかかります。そのため、同じ商品であっても、異なる供給者が扱っている場合、買う際に区別されます*3。現実の経済では、同じ商品を複数買う時、売り切れる場合等を除き、一つの店で買います。

論理を軽視する経済学

経済学では、論理が軽視されています。これは、既存の理論やモデルに合わない不都合な事実が無視されているのと表裏一体です。論理が軽視されている例としては、モデルから導かれた結論がそのまま現実の経済にも当てはまるかのように主張されがちなことが挙げられます。

経済学のモデルでは様々な仮定をおいているのに、その仮定が成り立たない現実の経済でもモデルから導かれた結論が、そのまま主張されたりします。
「空気の無い真空では石も木の葉も同じように落下するので、大気中でも石も木の葉も同じように落下する」
こういう論理(非論理?)が、経済学では往々にして主張されます。「空気の無い真空での落下」を考えることは、自然科学でもよくあります。経済学のおかしなところは、「空気の無い真空での落下」を基に「大気中での落下」を考えようとするのではなく、なぜか「空気の無い真空での落下」と「大気中での落下」が同じだとされてしまう点です。

論理的であることと数学的であることは、ほぼ同じことです。経済学は、数学的に間違いだらけということになります。経済学は、数学的であるかのように誤解されていますが、数学的なのはモデル内部だけです。モデルを現実の経済に適用しようとすると、途端に非数学的、非論理的になります。

*1:『マンキュー経済学? ミクロ編(第3版)』の「図15-2 競争企業と独占企業の需要曲線」等を参照のこと。

*2:需要曲線は右下がり。

*3:区別できないような仕組みになっている証券取引所等における取引を除きます。