経済学者は消費を理解していない1

経済学者もマクロ経済を理解していない

ちょっと気になる社会保障と経済政策 - 経済を良くするって、どうすれば」というエントリで「経済学者は貯蓄を理解していない」というコメントを書きました。しかしながら、経済学者は貯蓄を理解していないだけではなく、消費や投資も理解していないように見えます。
経済学者はマクロ経済全般を理解していないというべきかもしれません。
そこで、まずマクロ経済における消費という行為について、述べたいと思います。これ以降、このエントリでは消費という言葉は、特に断らないかぎり、マクロ経済における消費という行為、またはそれらの行為による消費額を指します。貯蓄や投資という言葉も同様にマクロ経済におけるものを指します。

消費は直接的には貯蓄に影響を与えない

マクロ経済における消費に関して、最も理解しておくべきでありながら、最も理解されていないことが、消費は直接的には貯蓄に影響を与えないということです。

所得(分配)から見ると、「Y=消費(C)+貯蓄(S)+税(T)」ですから、消費(C)を減らせば貯蓄(S)が増えるかのように見えます。
しかしながら、支出から見ると、「Y=消費(C)+投資(I)+(輸出(Ex)-輸入(Im))」なので、貯蓄(C)を減らせばYが減るため、貯蓄(S)は変わりません。

お金は天から降ってこないことが理解されていない

お金は雨や雪が降るように天から降ってくるものではありません。もちろん、知識としては誰でも知っています。しかしながら、ともすれば、消費を減らしても所得は一定であると見なすといったお金の循環を無視した、お金が自然発生するかのような考え方に陥りがちです。
皮肉なことに、経済学者の方がこの陥穽にはまりやすいと考えられます。ミクロ経済学の均衡モデルが、完全競争市場では各経済主体が市場価格でいくらでも売買できるといった、各経済主体がその経済主体がおかれている環境条件に影響を与えないという仮定の下でのモデルであるためです。

供給曲線の矛盾

供給曲線を成立させる仮定は相容れない

供給曲線を成立させるために、一般に以下のような反現実的な仮定がなされている旨、先日のエントリに書きました。

これらの仮定は、反現実的なだけではなく、相互に矛盾する相容れないものです。

  • 個々の企業は、水平な需要曲線に直面しており、市場価格でいくらでも売ることができる(として行動する)。
  • 限界費用は逓増し、個々の企業は、限界費用と市場価格が一致する生産量で生産する。

水平な需要曲線は需要量が無限大であることを意味する

水平な需要曲線は、需要量が無限大であることを意味し、市場価格でいくらでも売ることができることを意味しています。個々の企業にとって、需要量が無限大であるかのように行動すると仮定されています。

限界費用逓増は需要量(の増加)が小さいことを仮定している

限界費用逓増は需要量(の増加)が小さいことを仮定した上での仮定です。
例えば、『大学4年間の経済学が10時間でざっと学べる』(井堀利宏著)の50ページ目には以下のように書かれています。

たとえば、労働者の働く時間が長時間になると、生産の増加スピードは下がります。しかし、賃金は時間当たりで一定額を支払うことが普通ですから、仕事時間が増える分だけ賃金の総支払額が増加して、企業にとっては費用がより増大する結果となるからです。

ここでは、「労働者を増やして、労働者一人当たりの働く時間は増やさない」というケースが排除されています。これは、「需要量(の増加)が小さい」という仮定の下でしか合理的ではありません。

「需要量(の増加)が大きい」場合、限界費用を抑制するため、人を雇い、設備を増強することが、合理的になります。需要量に対応し生産量を増やせば総費用も増大しますが、限界費用を低く抑制することにより総費用の増大を抑制し、利潤を最大化できます。生産量が大きければ大きいほど、限界費用を低く抑制することは効果的です。

需要が十分に大きい場合、労働者を増やしたり、設備を追加したりすることで、限界費用を低く抑制できるのならば、企業はそれを行い、供給量を増やします。

労働者や設備が一定のままというのは、需要量や、需要量の増加が小さい場合、もしくは、需要量の増加がごく短期間といった場合でしょう。

供給曲線は、「需要量が無限大」かつ「需要量(の増加)が小さい」という矛盾する仮定の下にある

このように、一般に供給曲線は、個々の企業にとっての「需要量が無限大」かつ「需要量(の増加)が小さい」という矛盾する仮定の下にあります。したがって、これらの仮定の下では、論理的にも供給曲線は成立しません。

真夏にコートを着る合理的経済人

合理的経済人という錯覚

合理的経済人という言葉からすると、非人間的なほど合理的に行動する人間という印象を受けます。
経済学に対する批判でも、「人間はそれほど合理的ではない」といった種類の批判がよく見られます。しかし、本当の問題は、合理的経済人が真夏にコートを着てマフラーをまくような非合理的行動をとることにあります。

これは、「合理的」という言葉からくる錯覚です。合理的経済人の「合理的」とは、あくまでも、ミクロ経済学の理論やモデルにおける「合理的」であって、現実の経済における「合理的」ではありません。

合理的行動か否かは条件に依存する

合理的な行動か否かは、おかれている条件に依存します。コートを着てマフラーをまくという行動は、寒い真冬には合理的ですが、暑い真夏には非合理的です。

ミクロ経済学の仮定と現実の経済は大きく異なる、合理的な行動も大きく異なる

ミクロ経済学の仮定と現実の経済は大きく異なります。したがって、ミクロ経済学の仮定と現実の経済では、合理的な行動も大きく異なることがあります。
ところが、ミクロ経済学では、「寒い真冬にはコートを着てマフラーをまくのが合理的だから、暑い真夏にもコートを着てマフラーをまくのが合理的である」といったレベルの主張が珍しくありません。

一例を挙げます。ミクロ経済学では、多くの理論やモデルにおいて、取引に付随する、移動や輸送、通信等の様々な費用(時間等も含む)をゼロであると仮定しています。この仮定の下では、同じ商品について扱うのであれば、取引相手で区別したりしないのは合理的です。
しかしながら、現実の経済では、取引に付随する様々な費用が生じます。したがって、条件が最も良い取引相手の商品だけを扱おうとします。同じ商品でも異なる取引相手が扱うものは区別されます。北海道に住む人が、ありふれた商品を九州に買いに行ったりしません。

限界費用逓増における致命的欠落

限界費用曲線という幽霊?

限界費用逓増という状況下で、限界費用と市場価格が一致する生産量で生産する」という考え方には、致命的な欠落があります。それは、「企業はどうやって限界費用曲線を推定するのか」というものです。
限界費用と市場価格が一致する生産量で生産するには、限界費用曲線を推定する実用的な方法が存在しなければなりません。限界費用曲線を推定する、低コストで高精度な方法が存在しなければなりません。

もし、ほとんどの企業が限界費用と市場価格が一致する生産量まで生産しているとしたら、限界費用曲線を推定する実用的な方法が広く実施されており、結果として、その方法は広く知られているはずです。そのような方法は見当たりません。

限界費用曲線を推定する実用的な方法

限界費用曲線を推定する実用的な方法が存在しないわけではありません。下記のような総費用曲線を推定する方法があることは、損益分岐点分析において知られています。これらから限界費用曲線を導くことは容易です。しかし、これらは限界費用一定という前提の下での方法です。

  • 費目別精査法
  • 最小自乗法

ミクロ経済学の反現実的な仮定

ミクロ経済学は、多くの非現実的、反現実的な仮定からなっており、そのため、そうした仮定の下で導かれるミクロ経済学上の結論は、必ずしも現実の経済に適用できるものではありません。
「空気の無い真空中では石も木の葉も同じように同じように落下する」は正しいですが、「大気中でも石も木の葉も同じように同じように落下する」は誤りです。
ところが、ミクロ経済学では、「空気の無い真空中では石も木の葉も同じように同じように落下するから、大気中でも石も木の葉も同じように同じように落下する」といったレベルの発言が珍しくありません。

ミクロ経済学の教科書の最初の方に出てくる供給曲線ですら、非現実的、反現実的な仮定の下にあります。

供給曲線という仮定

経済学と言えば、需要曲線と供給曲線が交わる図を思い浮かべる人は多いと思う。教科書では価格規制などの政策効果の分析をしたりするのだが、実はこの図には大きな仮定がある。分析している財の支出に占める割合が小さい事を理由に、所得効果が無視されているのだ。

いや、「供給曲線」というのも仮定に過ぎませんけど……。

供給曲線を成立させるための反現実的な仮定

供給曲線を成立させるために以下のような反現実的な仮定がなされています。

  • 個々の企業は、水平な需要曲線に直面しており、市場価格でいくらでも売ることができる(として行動する)。
  • 限界費用は逓増し、個々の企業は、限界費用と市場価格が一致する生産量で生産する。
水平な需要曲線という反現実的な仮定

個々の企業にとって、その企業に対する需要以上に供給することは、売り上げが増えないのに費用だけが増大することとなり、利潤が減少することになります。したがって、需要の制限に直面している場合、企業における供給量は、一般に直面している需要の制限により決まります。直面している需要という企業外部の条件により供給量が決定されるため、供給曲線は一般に成立しません。供給曲線を成立させるため、個々の企業にとって、需要が無限大であるかのような仮定がおかれます。個々の企業にとっては、水平な需要曲線であるかのような仮定がおかれます。

例えば、『大学4年間の経済学が10時間でざっと学べる』(井堀利宏著)という本には以下のように書かれています。

個別の家計にとっては、自分が実感する供給曲線は市場価格で水平線になっています。逆に、個別の企業にとっても、自社が実感する需要曲線は市場価格で水平線になっています。

しかしながら、現実の経済においては、個別の企業にとっての需要曲線は市場価格で水平ではありません。これは、店頭に置かれている商品の存在が証明しています。店頭に置かれている商品は、店頭在庫とも呼ばれますが、これはある種の売れ残りです。期待した期間内では売れなかったという意味の売れ残りではありませんが、市場に供給したにもかかわらず売れていないという「売れ残り」には違いありません。これは、現実の経済においては、個々の企業が需要の制限に直面していることを示しています。

個々の企業が需要の制限に直面しているため、現実の経済においては、供給曲線は一般に成立しません。

限界費用逓増という反現実的な仮定

「個々の企業は、水平な需要曲線に直面しており、市場価格でいくらでも売ることができる(として行動する)」と仮定すると、個々の企業は供給量を無限大にしようとすることになってしまいます。そこで、限界費用逓増という仮定が必要になりました。限界費用が市場価格より高くなれば、供給量を増やすことは利潤を減らすことになるので、供給量はそれ以上増やされません。
しかしながら、限界費用逓増の反証はいくらでもあります。

一見、限界費用逓増が成立するかのように思える説明がなされることもあります。

農業で考える方が良い。畑と肥料と労働量と収穫物の関係を考えよう。肥料と労働量を増やすと単位収穫量は増えていくが、その効果は逓減していく。また、労働量を増やして労働者の時給を下げると、そのうち離職されてしまうであろう。大抵、投入要素のコストは逓増していく。こうして、限界費用逓増の法則が成立する。

畑の面積や労働者数が一定という仮定が無意味です。合理的に考えるなら、収穫物の生産量を増やすには、最も不足している生産要素を追加すべきです。肥料と労働量のみを増やすというのは、非合理的です。

供給曲線を成立させる限界費用逓増とは、限界費用逓増が起こりうるということではなく、限界費用逓増の下で企業が経営されているということです。限界費用逓増が起こりうることを示しても、限界費用逓増の根拠にはなりません。

限界費用逓増の反証の一つとして、損益分岐点分析があげられます。損益分岐点分析においては、費用を固定費と変動費に分けて分析します。その際、一般に変動費は売り上げに比例する、すなわち、限界費用一定として分析します。

ミクロ経済学は需要や供給を理解しているのか?

ミクロ経済学の基礎は怪しい

ミクロ経済学においては、需要や供給という基礎的なものすら適切に理解されているか怪しいです。例えば、需要量や供給量は、普通に足し合わせていいのでしょうか?

足し合わせることができないものはいろいろあります。温度は足し合わせることができません。100度の湯と100度の湯を一緒にしても200度になったりはしません。力の大きさや速さも一般に足し合わせることができません(より正確には足し合わせても意味がありません)。需要量や供給量を足し合わせることができるか否かは自明ではありません。もちろん、単なる物理的な量としてなら足し合わせることに問題はないでしょう。しかし、経済における量としての需要量や供給量が足し合わせることができるか否かは自明ではありません。

需要量や供給量は絶対的ではない

需要量や供給量は、誰にとっても同じ、絶対的な量とは言えません。
例えば、北海道の店で売られている商品は、九州にいる人にとって供給されているとは言えないでしょう。九州にいる人にとっても北海道にいる人にとっても、同じ供給量として扱えというのは、いささか以上に無理があります。

無差別的に扱うと、需要量や供給量を多重に計算することになる

九州にいる人にとっても北海道にいる人にとっても需要量や供給量を無差別的に扱えと言うことはできます。しかし、そのように無差別的に扱うと、今度は、流通・小売業者のように、買い手でも売り手でもあるような場合を適切に扱えません。流通・小売業者の需要量や供給量を計算にいれると、需要量や供給量を多重に計算することになってしまいます。

ミクロ経済学者は算数ができない

計算の順序を無視するミクロ経済学(者)

先日のエントリは、説明の中途半端さもあって、意図が適切に伝わらなかったようなので、ミクロ経済学の間違いについて説明し直します。

ミクロ経済学における根本的な間違いは計算の順序を無視していることです。「1を足して、次に2倍する」と「2倍して、次に1を足す」は違うという基本的なことが忘れられています。

経済判断は計算であると見なせます*1ミクロ経済学における計算(経済判断)の順序において、現実の経済における計算(経済判断)の順序が無視されているため、ミクロ経済学における理論やモデルが現実の経済と大きく異なるものになってしまっています。

ミクロ経済学者は買い物すらわかっていない

例えば、店に行って商品を買うのは、以下のような順序になります。

  1. 店に行く
  2. 買う
  3. 店から戻る

ミクロ経済学者はこれが、自分たちの主張するミクロ経済学のモデルと相容れないことに気づいていません。ミクロ経済学のモデルと異なり、買うのと売り手の選択は同時ではありません。買う前に売り手を選択しているため、売り手が異なる場合、同じ商品でも扱いが異なります。取引相手の区別の無い理論やモデルでは、普通の買い物が説明できません。

買う前に売り手を選択する

商品を買う前に「店に行く」とか「Webサイトを訪れる」とか「店に電話をかける」とかします。すなわち、買う前に売り手を選択します。

均衡モデル等のミクロ経済学のモデルでは、取引と取引相手の選択は同時ですが、現実の経済では、取引の前に取引相手の選択を行います。店は買い手を選択していないかのように見えますが、店をどこに立てるかという時点で、買い手を大まかに選択しています。

同じ商品でも売り手で買う側の扱いが異なる

買う前に売り手を選択するということは、異なる売り手の同じ商品を区別するということです。異なる売り手の同じ商品の数量を単純に足したりはできません。

買う際の商品の選択を以下のように喩えるとわかりやすいかもしれません。

  1. 一つの壷に赤い玉が2個、青い玉が6個入っており、壷から玉を1個無差別に取り出す。
  2. 壷が二つあり、赤い玉が2個、青い玉が6個、色毎に別々の壷に入っており、壷を無差別に選んだ後、壷から玉を1個無差別に取り出す。

前者がミクロ経済学のモデルであり、後者が現実の経済のモデルです。前者では赤い玉を取り出す確率が25%であるのに対して、後者では50%です。玉を2個取り出す場合は、さらに違いがはなはだしくなります。前者では赤い玉を2個取り出す確率が5%に満たないのに対して、後者では50%です。

ミクロ経済学のモデルとは売り手の合理的な行動が異なる

ミクロ経済学のモデルと現実の経済が大きく異なるため、売り手の合理的な行動も異なります。

上記の喩えにおいては、ミクロ経済学のモデルに相当する前者では赤い玉を増やせば増やすほど赤い玉を取り出す確率は高くなります。すなわち、生産量(供給量)を増やせば増やすほど売り上げが増え、利潤が増えます。それに対して、現実の経済に相当する後者では赤い玉を増やしても赤い玉を取り出す確率は変わりません。すなわち、生産量を増やしても売り上げは増えず、利潤は低下します。現実の経済では、取り出す玉の個数、すなわち、商品の需要量に一致する生産量で最大の利潤となります。

ニュートン力学のサルマネをしてしまったミクロ経済学

ミクロ経済学が計算(経済判断)の順序を無視するという間違いをしてしまった理由はニュートン力学のマネをしたからでしょう。ニュートン力学では、摩擦のないモデルを基に考えます。理想気体や完全黒体など理想化したモデルを基に考えるのは、物理学の他の分野でも一般に見られます。

しかし、ニュートン力学において摩擦と重力等の他の力は同時に作用しているもので本質的に順序はありません。したがって、摩擦を後回しに考えるというのは、単にその方が考えやすいからにすぎません。理想気体や完全黒体についても同様のことが言えます。

本質的に同時で順序が無いニュートン力学のマネをして、順序がある経済判断の順序を無視してしまったのが、ミクロ経済学の間違いです。

*1:経済判断に限らず、判断一般が計算であると見なしてもいいでしょう。