PB黒字化目標は有害無益

PB(Primary Balance)黒字化目標は、有害無益です。
日本政府(以下、政府)は、理論上は、いくらでも歳入を増やすことができます。したがって、政府は、本来、国債関係を除いた、歳入と歳出の比であるPBを気にする必要はありません。
政府のPBの黒字化は、国民にとっては、所得の減少です。「黒字化」という言葉に誤魔化されがちですが、国民にとっては、「赤字化」です。国民にとって、PBの黒字化は、有害でありこそすれ、何の利益もありません。ある意味、自爆テロより悪質な詐欺的行為です。

政府はPBを気にする必要はない

政府はPBを気にする必要はありません。
簡単に言えば、PBとは、国債関係の歳入や歳出を除いた、残りの歳入と歳出のバランスです。しかしながら、日本政府のような、独自通貨建てで国債を発行できる政府は、PBを気にする必要がありません。中央銀行(日本の場合、日本銀行)に国債を買い取らせればすむからです。理論的には、いくらでも発行可能であり、国債の発行を含めると歳入の上限はありません。現実には、国債の発行の増加はインフレ率を上昇させるため、許容できるインフレ率が国債発行の上限となります。現在のようなデフレでは、実質、国債の発行の上限はありません。
通貨を発行できない自治体や企業、個人などは、返済能力に上限があり、その返済能力で歳入の上限が決まってしまいます。しかし、通貨を発行できる政府は、その通貨である限り、返済能力は、理論的には無限です。
三権分立中央銀行の独立性など、厳密に言えば手続き的な問題はあります。しかし、国会の議決さえ得られれば、法的根拠を得て、中央銀行に命令することさえできます。

PB黒字化は国民の赤字化、有害無益

PB黒字化は、国民の赤字化であり、有害無益です。PBの黒字化には、大きく以下の二つの方法があります。「増税して国債関係以外の歳入を増やす」と「歳出を減らす」の二つです。どちらも、国民の所得を減らす方に働き、国民の赤字化につながります。「増税して国債関係以外の歳入を増やす」のは、国全体の所得のうちで政府へ行く分を増やすものです。国民へ行く分を減らすことでもあり、国民の赤字化につながります。「歳出を減らす」のは、反対側から見れば、所得を減らすことです。これも、国民の赤字化につながります。
国民の赤字化は、究極では、日本が滅ぶことであり、日本政府が滅ぶことです。財務省が滅ぶことであり、財務省の官僚が滅ぶことです。財務省の官僚が死に絶えているとはかぎりませんが、日本政府が滅び、財務省が滅んだ後では、財務省の官僚であったことは、何の値打ちもありません。
PB黒字化は、一時的には、財務省の官僚のメンツやそのシンパのメンツの上では、利益があるかもしれません。しかし、長い目で見れば、どの日本人にとっても、有害無益です。

PB黒字化は自爆テロ以下

PBの黒字化は、自爆テロ以下の代物です。
PBの黒字化は、上記のように長い目で見れば、どの日本人の利益にもなりません。客観的にも主観的にもです。自爆テロは、客観的には利益になりません。しかし、テロリスト本人の主観では、宗教に殉じる崇高な行為かもしれません。つまり、主観的利益すら無いので、PB黒字化は、自爆テロにすら劣るということになります。
(9/13修正「歳出」と誤っていた箇所を「歳入」と修正)

需要と供給の一致に価格は必要ない

需要と供給の一致は単なる物理的法則で説明できます。分岐の無い定常的なフロー(流れ)においては、入ってくる量と出ていく量は一致します。価格は必要ありません。価格が必要だということは、部分均衡モデルは、必要以上に複雑過ぎるということです。また、価格と関係ない場合を説明できないということでもあります。
価格が不要だということは、ゲーム理論での競売も考慮する必要は無いということです。

需要と供給が一致するのは単なる物理的法則

需要の数量と供給の数量が一致するのは単なる物理的法則から導かれるものにすぎません。厳密に言うなら、時間当たりの出ていく量、需要の数量と、時間当たりの入ってくる量、供給の数量とは、変化のない定常的フローにおいては、一致します。これは、質量保存則、エネルギー保存則などと呼ばれる法則から導かれます。
例えば、水道の蛇口を一方に差し込んだホースを考えます。ホースを市場と、時間当たりにホースから流れ出る水の量を需要の数量、時間当たりにホースへ流れ込む水の量を供給の数量と見なします。このとき、フローが定常的であれば、時間当たりに流れ出す水の量と流れ込む水の量は一致します。需要の数量と供給の数量は一致します。

価格を必要とする部分均衡モデルは不適切

価格を必要とする部分均衡モデルは不適切なモデルです。「オッカムの剃刀」という言葉があります。仮定は必要最小限であるべきです。価格を仮定する必要のある部分均衡モデルは、このオッカムの剃刀に反しています。必要以上に複雑過ぎます。
また、同じ商品に複数の価格があっても特に支障なく現実の市場が成立している事実は、需要と供給の一致に価格は必要ないということから簡単に説明できます。
現実の市場は小さな独占市場の集まりと見なせます。しかし、需要と供給の一致に価格が必要ないなら、特に支障はありません。

供給曲線は存在しない

現実の市場には、供給曲線は存在しません(商品取引所などの取引所内部の市場や買い手独占型の独占市場を除く)。現実の市場は、売り手独占型の独占市場の集まりとなります。こうした市場においては、各供給者の供給量は、各供給者に対する需要で決まります。この需要は、各供給者とは直接の関係は無く決まります。そのため、供給曲線は一般に存在しません。

供給量は、利潤最大化原理から求まる

各供給者における供給量は、利潤最大化原理から求まります。利潤最大化原理は、売れ残りなどがなければ費用最小化原理と同じと見なせますが、売れ残りのリスクが無視できない場合は、別のものとして扱う必要があります。

利潤が最大になる供給量は、供給者に対する需要で決まる

各供給者における利潤が最大になる供給量は、各供給者に対する需要によって変わります。費用のみを考えて、商品の売れ残りが無いと仮定して供給しても、売れ残った分は利潤が増えません。むしろ、費用の分、実質的な利潤は増えないどころか低下します。そのため、各供給者の供給量は、一般に、予定の期間で商品が全て売れてしまうような供給量になります。
こうした各供給者の供給量は、各供給者の供給能力とは直接の関係無く決まります。各供給者に対する需要家の数や各需要家の需要の度合いといったもので決まります。これらの需要は、各供給者との直接の関係はありません。

供給者曲線は存在しない

各供給者に対する需要は、供給者自身とは直接の関係はありません。そのため、各供給者の供給量も供給者の供給能力とは直接の関係がありません。各供給者の供給量は、供給者の能力とは、直接的な関係はありません。一般に供給曲線は存在しません。

現実の市場は小さな独占市場の集まり

市場について考える時は、価格、すなわち取引される商品そのものの費用だけでなく、移動等の取引に付随する費用(時間等の費用も含む)も考慮する必要があります(商品取引所内部の取引等を除く)。移動等の費用を考慮すると、需要家は最良の条件の供給者から買うことになります。需要家は複数いるため、現実の市場は小さな独占市場の集まりとなります。

取引に付随する費用を考慮する必要がある

計算の順序は一般に変えられません。したがって、取引についての計算の順序は、物理的な実行順序に則している必要かあります。経済における判断の順序は、実行順序に則している必要があります。例えば、商品(サービスも含む)を店舗で購入する前に、商品の店舗への移動や購入者の店舗への移動が必要です。移動の前に、移動のための判断が必要です。取引に先立つ移動等の判断をした後でしか、取引に関する最終判断はできません。
取引の後に発生する費用については、後で足せば良いように思えますが、これらの費用にも順序性があり、また、多くは、取引の前に発生する費用への依存があります。取引の後に発生する費用についても、物理的な順序に則した計算が必要となります。

このように、取引に付随する費用を考慮する必要がある上、取引の前に発生する費用については、取引の前に最終判断ができていなければなりません。商品の価格だけで判断することはできません。

最良の条件の供給者から買う

商品を買う前に、店舗に行くとか、サイトを訪れるとかする必要があります。こうした費用も価格と同様に考慮する必要があります。そのため、ある需要家が商品を買う時は、価格だけでなく、付随する費用も含めた最良の条件の供給者から買うことになります。各人の供給者は、通勤や通学などの理由で動き回っています。また、需要家は膨大な数います。したがって、最良の条件の供給者は一般には複数います。相当数います。そのため、市場は、一般に小さな独占市場の集まりとなります。

厳密には、費用最小化原理ではなく、満足化原理にしたがいます。費用がある程度小さくなればそこで満足して最小の費用は求めません。そのため、厳密な独占市場の集まりではないですが、近似として、そのように考えることができます。

現実の市場は小さな独占市場の集まり

現実の市場は小さな独占市場の集まりなので、基本となる市場は、独占市場となります。現実の市場は、多くの場合、価格制限付きの独占市場として近似するのが適当でしょう。

なお、これらは、供給者より需要家が多い、いわゆる売り手独占の市場の集まりと想定しています。逆に需要家より供給者が多い場合は、買い手独占の市場の集まりになります。労働市場等がその例です。

また、商品取引所内部の取引は、これらの独占市場の集まりとは言えません。しかし、完全競争市場で近似できる市場とも言い難いです。これらの市場の正会員等は、少数で閉鎖的です。一般の参加者の場合は、多数で開放的ですが、手数料等が無視できません。一種の独占市場と見なすのが適当でしょう。

計算順序という経済学の初歩的問題

経済学(特にミクロ経済学)には、計算の順序という初歩的な数学上の大問題があります。多くの経済学者がこの問題の存在を忘れていることが経済学に致命的欠陥をもたらしています。多くの経済学者は算数レベルの法則を忘れています。この問題のため、ミクロ経済学の多くには数学的裏付けが無く、ミクロ経済学の教科書は9割方書き直す必要があります。

計算の順序は一般に変えられない

計算の順序は一般に変えられません。数学的に言うなら、合成関数の交換法則は一般に成り立ちません。「1を足す。次に、2倍する」と「2倍する。次に、1を足す」は違います。元の数を「x」とおけば、前者は、「2x+2」であり、後者は、「2x+1」です。計算の順序が異なる式は、一般に別の式と見なす必要があります。別の計算と見なす必要があります。

経済には順序性がある

経済における行為には、順序性があります。ある商品を買うという行為一つとってもそうです。商品やヒトの移動は買う前に必要ですし、買って帰るのは、買う後しかできません。もちろん、商品の加工や組み立ては買う前に行う必要があります。こうした経済に関する計算は、現実の物理的順序に則した計算である必要があります。

ミクロ経済は抽象化できない

このように経済には順序性があるため、経済は抽象化できません。厳密に言うなら、ミクロ経済の多くは自然科学等と比べてかなり低いレベルの抽象化しかできません。ニュートン力学をはじめとした自然科学において理想化・抽象化したモデルが使用できるのは、それらが、物理的に同時であり、順序は表記上のものにすぎないからです。ニュートン力学では摩擦がないモデルを基にしますが、それは摩擦が他の力と同時に作用しているからです。同時だから後で足すことができます。理想気体とか完全黒体といったモデルが使えるのも同じです。同時だから、抽象化から外れる部分を後で足すことができます。それに対して、経済行為には順序性があるため、順序に則した計算をするしかありません。計算の順序を変えると別の計算になってしまいます。

ミクロ経済学は間違いだらけ

計算の順序が変えられないため、ミクロ経済学のモデルの多くが使い物になりません。例えば、部分均衡モデルにおいて、取引の前に発生する商品やヒトの移動の費用(金銭的なもの以外も含む)は扱えません。取引以前に商品やヒトの移動の費用が発生してはいけないことになります。取引以後なら良いように思えますが、これらも順序性があるため、順序に則した計算が必要になります。考えるべき因子が多過ぎて事実上不可能でしよう。

ミクロとマクロはほぼ逆

ミクロ経済とマクロ経済はほぼ逆

ミクロ経済とマクロ経済は、完全にではありませんが多くの点で逆です。例えば、ミクロ経済では、一般に経済全体を所得の合計として考えますが、マクロ経済では、逆に経済全体を支出の合計として考え、所得は支出の結果として考えます。

四重の等価

マクロ経済を考える上で、私が基礎になると考えていることが、四重の等価です。ですが、特に難しいことを考えているわけではなく、二重の複式簿記複式簿記の左右は各々等しくなる。ということを覚えておけばいいです。
売った商品と買った商品は等しい。売った金額と買った金額は等しい。売った商品と売った金額は、会計や経済学の定義上等しい。買った商品と買った金額は会計や経済学の定義上等しい。というように四重に等しくなるため、四重の等価と私は呼んでいます。四重の等価は一組のマクロ経済の取引に当てはまるものですが、当然、ゼロ組のマクロ経済の取引、すなわち、取引していない場合にも当てはまります。これには、GDPのような付加価値という考えは入っていませんが、この四つが必ず等しくなるということは、マクロ経済を考える上で、私にとっては基礎となります。