思い込みは無くせない
はぶあきひろさんの「先行指標」というエントリに以下のように書かれている。
このように、物事には先行指標があります。先行指標にこそ敏感にならないといけないのです。
これには異論がないのだが。
そのためには事実に対して客観的でなければなりません。気持ちが前向きかどうかというのとは別の話です。大切なのは観察眼です。ちゃんと見るということです。思い入れや思い込みを排除して事実に向き合うということです。
これは違う。思い入れや思い込みを排除することはできない。全く思い込みが無くものごとを見ている人がいるとしたら、生まれてまもない赤ん坊か目を開けたまま眠っている人ぐらいだろう。目の網膜にものが映っていても脳はそれを認識していない状態にある人だろう。
以下のようなことを以前書いている。
「事実の理論負荷性」とか「認識の理論依存性」とか呼ばれる科学哲学の用語がある。事実が広い意味での理論(仮説、常識、信念などを含む)に依存しているということを示す用語である。 「犬がいる」という事実は「それは犬である」という判断に依存している。事実に基づいて判断するとかいうが、本当は、事実自体がまず判断に依存している。判断は、それを行う主体無しには成立しない。判断を行う人間のものの見方から自由ではない。
手書きで一文字だけ書かれている時、カタカナの「カ」と漢字の「力」が区別できるだろうか?カタカナの「カ」と漢字の「力」が区別できるのは、日本語の知識により文脈から区別しているのであって、字の形など目に直接見えるものだけから区別しているわけではない。日本語の知識により、字の形などからでは見えない違いを見ているからカタカナの「カ」と漢字の「力」が区別できる。 昔の機械式タイプライターにいたっては、数字の"0"や"1"が無く、"O"や"l"で数字を表していた。知識の助けにより見ているから、数字の"0"や"1"が無くても支障がなかった。現在のコンピュータのキーボードに数字の"0"や"1"が在るのは、知識の無いコンピュータで処理する必要があるからである。
主観が入っていない事実は無い。極端なことを言えば、「事実は人の数だけある」のである。
思い込みを排除すべきという考えが思い込みを招く
思い込みを排除することができると思っているから、自分の見方に思い込みが無いつもりになってしまう。思い込みを排除することができないと認識すれば、自分の見方における思い込みを警戒するようになる。