信号とノイズとのグレーゾーン

記事の質が悪いから、コメント欄にきつい書き込みが集まるのだというご意見が多数ありました。そういう面があるかもしれません。ただし、編集部としては誹謗中傷は多寡の問題ではなく、ゼロにしたいと思っています。

私はこのコメントを読んで、彼のネットコミュニティに対するこうした理解のしかたが、ここまで事態を悪化させたのではないかと思った。たしかにコメント欄には、罵声や誹謗中傷といったノイズのようなものも含まれている。きつい批判もある。しかしインターネットのコミュニティでは、聞きたくない批判はもちろん「ノイズ」だって存在するのが当然であって、それらを排除してはならない。「ゼロにしたい」というのは排除の論理であって、ネットのコミュニティで運営側が発言すべき言葉ではないと思ったのだ。おまけにここは、単なるネットコミュニティではない。市民ジャーナリズムを標榜するメディアなのだ。排除の論理と市民ジャーナリズムがなぜ同居できてしまうのか。

そもそも、信号とノイズとを厳密に区別できない。批判と誹謗や中傷との間に厳密な境界線を引けるわけではない。一つの意見の中に、批判と誹謗や中傷とが混じっていることも珍しくもない。誹謗や中傷をゼロにしようとしたら、実質全ての批判を禁じるしかない。信号とノイズとを厳密に区別できない以上、批判を許そうとしたら、誹謗や中傷と思えるものがある程度混じることを覚悟しなければならない。
「信号とノイズとを厳密に区別できる」と考える時点で、既にある種の独善に陥っている。だから。

本来、編集部でとりまとめを行うべきだった議論を放置し、「そちらでまとめてください」とボールを投げ、さらにそのボールに対してすがるようにオピニオン会員たちがあれこれと議論をしたことに対して、「やはりまとまらない感じですよね」のひとことでバッサリと切り捨ててしまったのである。さらにこれらの議論に対しても、「不平不満は続くだろうし、おっしゃりたい放題、遊び放題は続くだろう」という表現で切り捨ててしまった。

というような態度がとれるのだろう。