宗教にはまる

先日話題になった、産経新聞インテリジェントデザインと反進化論の話。この渡辺久義京大名誉教授が統一教会の人だというので、信者と覚しき人のリストをチェックしていたら、なんとその中に一松信先生の名前を発見してしまった。

全ての面で理性的な人などまずいない。理性的と思われていた人が、全く非理性的な面を見せることはよくある。

コペルニクスガリレオケプラーが地動説を唱えたのは、一般に信じられているのとは違って、宗教的な情熱からだったと言われてる。ガリレオの裁判も地動説と宗教との対立というよりも、当時のカトリック内部の権力争いというのが実態だったらしい。

「信じる」ことが「考える」ことの基礎になっている。「疑う」ことが「考える」ことの基礎になっているのではない。自分が存在すること以外は全て疑うことができる。目に見えることや耳に聞こえることすら幻覚ではないという絶対的な証明はできない。

「正しい事実から論理的に思考を積み重ねている」と信じがちであるが、実際は、誰もが「正しいと信じることから非論理的に思考を積み重ねている」のが実態である。