死人に口なし

南京虐殺についてちょっとした話題になっている。あまりにもひどすぎる発言があったので取り上げてみる。

軍人の本分がそのようなものであれば、一人のゲリラが紛れ込んだ村というのは、そのゲリラを特定して殲滅しなければ自分たちが危険であるということが論理的に帰結されるだろう。そして、その特定が出来ないとき、村人がゲリラを特定するだけの情報を与えなければ、そのことで村人が犠牲になっても仕方がないと考えるのが軍人の論理だろうと思う。

軍人の論理に従えば、一人のゲリラを殲滅するために100人の村人が犠牲になっても、それは虐殺ではなく、任務遂行の際に起こった事故であり止むを得ない犠牲だと考えるだろう。それを虐殺だという判断が大勢を占めるようなら、軍人の論理がまったく通用しない「言語ゲーム」が行われているのだと思う。

論理というのは推論の妥当性を問題にするものであり、どんな前提を置くかということは論理の問題ではない。だから、論理の前提に置かれる命題が、まったく自分とは違うものであった場合、論理的に正しい推論で、自分はまったく賛成できない結論が導かれることもあるということを知っておいたほうがいいだろう。このような場合は、結論だけを指して批判しても仕方がないし、結論が違うことを指して論理的ではないといっても仕方がない。

論理的におかしいという指摘は、例えば戦闘行為の過程で起きた民間人に対する殺人行為が「虐殺」に当たるかどうかを客観的に決定できるとするような推論は、まったく論理的ではないと僕は感じる。客観的ではなく、主観的に、自分の立場からそれを「虐殺」だと主張することは出来るだろう。しかし、立場を越えて客観的に「虐殺」であるという判断が出来ると考えるなら、それは論理的に見ておかしい。

そのような「軍人の論理」は無視してかまわない。そういうのを屁理屈という。なぜなら、死んだ人間は抗議できない。殺した側の一方的な主張だけが取り上げられるのでは、殺された側はたまらない。そのような「軍人の論理」を否定することによってのみ建設的な議論ができる。