労働は時間である

ホワイトカラー・エクゼンプションが、「残業代ゼロ法案」と受け取られる理由は、いくつかある。

各個人の責任範囲があまりに曖昧すぎるのだ。

しかし、シンクタンク研究員の中で、自分で好きなように仕事のやり方を決めて、自由な時間に帰れるのは主任研究員のなかでも上の方、プロジェクトリーダークラスだ。その年収は1000万円を超えるというのが、おおよその相場だろう。

これが、給与が高騰するトレンドにある時期であれば、もっとすんなり通っただろう。ところが、21世紀に入ってから労働分配率は下がりつつけてきたのである。

だが、「残業代ゼロ法案」と受け取られる一番大きな理由は、時間に金を払っているという面を無視していることだと思う。人を拘束する以上、拘束する時間にお金を払うのは当然である。拘束している時間に何をしているかは関係ない。出張等で移動する時間も労働時間と見なすのはごく普通のはずである。

経営者に「他人の時間を買っている」という視点が欠けているのがそもそもの問題の発端ではないのかな、と。もちろんこれに対して経営者がらの反論として「現実はそんなに甘くない」「必死にやらないと勝てないのは当然だ」「能力が劣った奴が遅くまで残るのは仕方ない」というものがあるでしょうが、一介のダメ労働者であるhamastaから見たら全部言い訳に過ぎません。

時間に金を払っているのではなく成果に金を払っている、というのであれば、会社に出勤する必要はなく、在宅勤務でいっこうにかまわないはずである。成果に金を払っているというのであれば、通勤費やオフィス代も節約できる在宅勤務が会社にとっても得なはずである。
時間に金を払っているのではなく成果に金を払っているという主張と在宅勤務の採用率の低さとは全く相容れない。在宅勤務が選べないような現状では、「成果に金を払っている」などと言われても全く説得力がない。「労働は時間ではない」どころか、「労働は時間である」というのが日本の現状だと思う。