経済学の理論と矛盾する事実は掃いて捨てるほど見つかる

経済学の理論がニセ科学と同様の欠陥をもつ

経済学が信頼されないのは、ニセ科学と同様の論法を使っているから」と先日書いた。なぜ、ニセ科学と同様の論法を使っているのかと言えば、経済学の理論(主に均衡モデル)がニセ科学と同様の欠陥をもっているからである。

  • 理論と相容れない事実が存在する。
  • 理論に論理的、数学的欠陥がある。

という理論を否定する根拠があるにもかかわらず、それらを意識的、無意識的に排除してしまっている。そのため、誰もが確認できるような事実を基に、論理的、数学的に理論を説明していくという、自然科学では普通に使われている手法が、経済学では適切に使用できていない。十分には確認できていない事実や、ご都合主義的な仮定から、飛躍のある論理で理論を組み上げていくという結果になってしまっている。自然科学でもご都合主義的な仮定や飛躍のある論理は珍しくないが、それらは、実験や観察により、補強、修正されるため、大きな間違いが定着することは少ない。

多くの商品が価格一定の下で供給量が変化する

経済学の均衡モデルでは、供給量を決定する最大の要素は価格であるということになっている。一般に価格と供給量の関係は、右上がりの供給曲線としてあらわされる、だが、価格が変わらないのに、供給量が周期的に変化する商品は、身の回りにいくらでもある。例えば、アイスクリームやビールは夏に供給量が増え、使い捨てカイロやホットドリンクは、冬に供給量が増える。だが、価格はほぼ一定である。もっと短い周期で、供給量が変化する商品もある。ビジネス街のコンビニで売られているサンドイッチや弁当は、平日と休日とでは売られる量が全く違う。結果として売れないということではなく、仕入れて商品棚に置かれる量が違う。

損益分岐点分析では、限界費用逓増ではなく限界費用一定と見なす

均衡モデルでは、供給量を単位量増やすために必要な費用は供給量が増えるにしたがい増えるという限界費用逓増を仮定している。だが、基本的な経営分析である損益分岐点分析では、供給量を単位量増やすために必要な費用は供給量い関係なく一定であるいう限界費用一定を仮定している。「損益分岐点」を問題にすること自体が、売り上げが供給者の自由にならないことを意味している。供給したもの全てが売れると期待して供給量を決定するという、供給曲線の前提が成り立たないことを意味している。