トンデモという決め付け(2)

トンデモという決め付け」に対してコメントをもらった。また、“理科教育と非実在論・相対主義についての「続き」”というエントリも書かれていた。特に気になる点が2点ほどあった。

原子や分子が実在すると教えることの危険性

たとえば、原子や分子を実在としない立場から、目に見えるすべてのものが実在ではないとか、自然界そのものが実在ではないというような議論に至るのは、非実在論の枠組みでごく簡単なことです。というか、原子分子が非実在で、「目に見える」物質が実在であるというふうに線引きすることは意外に難しいのです。にもかかわらず、この本の記述には、自然界は確固としてあるけれど、原子や分子など目に見えない者は非実在、というような素朴なレベルでの非実在論が表明されているように思えます。

つまり半端なのです。

半端な面があることは否定しない。だが、原子や分子が実在すると天下り式に教えることは、原子や分子が理論的構成物であると教えること以上に危険性があると思う。
原子や分子が理論的構成物であると教え、原子や分子に疑問を抱かなくなってから原子や分子が実在すると考えるのであれば問題ない。だが、原子や分子が実在すると天下り式に教えることは、神や悪魔が実在すると教えることと本質的に差が無いように思う。言われたことや書かれていることを信じるか否かということになってしまう。本に書かれているから、偉い人が言っているから信じるというのでは、科学的とは呼べない。
正しい科学知識を詰め込むだけでは、間違った知識を教えられた時にそれを間違いと判断する能力はつかない。科学的な考え方を身につけさせることが大事なのであって、知識の習得は優先度が下がる。

正しいと広く信じられているものが正しいとは限らない

酔狂人さんがコメントされている、「理論負荷性や知識による推論の誘導は、ほぼ全ての局面に存在する。例えば、実験データを計測する時、何を計測するか決めるのは「理論」である」というのは、まったくその通りだと思います。

ただし、これは、科学に限らず、人間が行う論理的な推論一般がそうだとはいえないでしょうか。何か疑問が生じたら、推論に応じて、必要な部分を確認する。すべての可能性を考慮してしらみつぶしをすると、無限の時間がかかりますよね。

ぼくが「理論負荷性や、知識による推論の誘導が時にはある」と述べたのは、そういった推論の性質が、ある期間にわたって、ある研究分野をミスリードすることがある、という意味です。「理論負荷性」が言われる場合、これら両方のことがごっちゃになっていることが結構あると思います。

その「期間」が、何十年、何百年にも渡り、「研究分野」に留まらず、専門分野の教科書どころか社会一般にまで広まっても、「ある局面」と言っていられるだろうか。また、研究者個人個人にとっては、その「期間」は致命的なものになりかねない。

他のエントリで批判しているように、ソフトウェア工学や経済学は基礎的なレベルで大きな問題を抱えている。不適切な理論を基にデータを積み重ね、そのデータを基に理論を展開している。ソフトウェア工学にいたっては、裸の王様の服に喩えられているほどである。実験できる自然科学は、そのような問題を抱えにくいだろう。だが、自然科学であっても実験が著しく困難な分野は存在する。特にそうした分野においては、「理論負荷性」を軽視できないはずである。