超越的存在について言及してしまう実在論

非実在論とは」に対する批判として、「無矛盾性だけでは足りない」というエントリが書かれている。だが、事実誤認もあり、ほとんどの点で合意できない。

非実在論」と自称したことは無い

しかし、いくらなんでも「実在論以外の存在論の総称」の中に、全然意味合いの異なる二つの立場をまぜこぜにしたままで「非実在論」を自称するのはいいかげんに過ぎる。

自分の考えを「非実在論」と自称したことは一度も無いんだけど……。「非実在論とは」という題にしたのは、私の考えを「非実在論」と呼ぶので、「非実在論」とはどういうものなのか説明する必要性を感じたからである。「実在論以外の存在論の総称」で呼んだのは私ではない。

実在論では科学的探究の目的と合致しない

しかし、「探求に意味を与えるものとしての実在論」で書いた批判については免れ得ない。その箇所で僕は次のように述べた。「実在論に立つことには、明らかなメリットがある。実在論は、私たちの知識の探求が「何のためであるか」を説明することができる。…他方、非実在論に立つことによっては、私たちの知的探求の営みがどういう目的のものであるのか、それは何のためになされているのかを説明することができない」。これは言い換えれば、「科学的探究は何のためになされるのか」という問いに対する答えを理論体系に付け加えるとするならば、実在論的体系は矛盾することなく付け加えることができるのに対し、非実在‐論的体系ではできない、と主張しているのだ。

証明したり、反証したりできるのは、人間の認識の範囲*1までである。科学で扱えるのは、人間の認識の範囲までである。人間の認識の範囲を超えてしまう実在論は、科学的探究の範囲を超えてしまう。

実在論とID理論との類似性

 他方、実在論は、シンプルに、そして私たちの直観に合致する形で、これらの問いに答えられる。ゆえに、その性能差ゆえに、少なくとも理科教育の現場で採用されるべき仮説としては実在論が採られるべきだ、ということまでは言える。もちろん、それは「仮説」として提示されるのであり、非実在‐論についても教えていけないわけではない。しかし、それは「同等のものとして」ではありえない。現に、科学的探究の目的について答えられないという意味で、その点に関して、性能が低いがゆえに暫定的にであれ棄却されているものとして教えていい、せいぜいその程度である。無矛盾性は理論体系がみたすべき必要条件ではあるけれども、それだけで十分なわけではない。その主張内容が要請される問いに答えをもたらしうる程度に豊かであるかどうか、それが問われるのである。

 似たような話として、進化論とID理論の問題がある。suikyojinさんが拘っているところの「無矛盾性」について言うならば、ID理論で矛盾は生じない。だとすれば、進化論とID理論を同等の理論として教えるべきか?ナンセンスな話である。

実在論は、証明したり、反証したりできない超越的存在について言及しているという点では、ID(インテリジェントデザイン)理論と同じである。実在論に基づいて教育するというのは、ID理論に基づいて教育するというのと同じで到底同意できない。

*1:機械による補助により認識できるものも含む