「危うさ」と述べる記事の危うさ

平気で夏に「缶コーヒー」「スポドリ」飲む危うさ』という記事がかなり酷いので、コメントしておきます。 以下のような問題があります

  • 摂取量等を無視して害は語れない
  • 天然か合成は害の強弱とは別
  • 天然甘味料にもリスクがある

摂取量等を無視して害は語れない

以下のような有害性の記述がありますが、摂取量等を無視して害は語れません。

アセスルファムKはイヌを使った実験で、肝臓にダメージを与えたり、免疫細胞の1種のリンパ球を減らすことがわかっています。

「水中毒」とか「酸素中毒」といった言葉があります。水や酸素ですら、過剰に摂取すると命にかかわります。一般に、ほぼ全ての物質が摂取しすぎると有害です。上記のように量的な記述無く有害と言っても意味はありません。「水を過剰に摂取すると死ぬ」ということは、「水を摂取してはいけない」ということを意味しません。

天然か合成は害の強弱とは別

天然か合成は害の強弱とは別のことです。合成甘味料が特に取り上げられているようですが、天然か合成かで区別する根拠は、特にありません。テトロドトキシンで知られるフグの毒やヘビ毒、毒キノコの毒等、天然の毒物はいくらでもあります。天然であることは、無害であることを意味しません。

天然甘味料にもリスクがある

合成甘味料が目の敵にされているようですが、砂糖に代表される天然甘味料にもリスクがあります。天然甘味料は、一般にカロリーが高くなります。そのため、肥満や糖尿病、血糖値スパイク等のリスクが高くなります。合成甘味料を避けるよう言うなら、天然甘味料のこうしたリスクも挙げなけば公平ではありません。

転売が嫌われる理由

転売行為は付加価値を生まない』というエントリがあります。転売は嫌われています。その理由の一つは、売り手が完全には自由な価格で商品を提示できないからです。売り手が自由な価格で商品を提示できないという、現実の経済の弱点に転売は依存しています。そのくせ、その弱点から利益を得るという、転売は現実の経済に寄生する行為です。

売り手は完全には自由な価格で商品を提示できない

現実の経済では、売り手は完全には自由な価格で商品を提示できません。一部の商品を除き、売り手は自由な価格で商品を提示でき、買い手はその価格で買わないこと等により対応するように見えます。しかし、これは、法律上の建前に過ぎません。数学的に厳密に、売り手が自由な価格で商品を提示できるわけではありません。

もし、売り手が完全に自由な価格で商品を提示できるなら、そもそも、転売が成り立ちません。売り手がある程度以上の価格で商品を提示したら、転売する利益が無くなってしまいます。転売できるのは、売り手がある程度安い価格で商品を提示しているからです。つまり、売り手は完全には自由な価格で商品を提示できるわけではありません。

現実の経済では、売り手は完全には自由な価格で商品を提示できないことは、その対偶を考えると理解できるでしょう。

売り手が完全に自由な価格で商品を提示することは、現実の経済ではできません。例えば、買い手が買おうとした直前に売り手が価格を吊り上げるというようなことはできません。もし、そんなことが起きたとしたら、買い手はその後、その売り手から買おうとはしなくなるし、知人にもその売り手から買うなと助言するでしょう。

逆に、売り手が価格を下げて商品を提示することも完全には自由ではありません。買い手が下がった価格を知り、買おうとするまである程度の時間がかかります。従って、価格を下げただけでは、短い期間で見ると、売り上げ数量が減るだけです。その期間は、価格を下げない方がむしろ、売り上げや利益は大きくなります。

買い手が商品の価格を監視しておくことには費用がかかります。また、買い手が価格の変化を知り、購入行動を変化させることにも、時間を含め、費用がかかります。そのため、買い手は、ある程度は、商品の価格が変化しないものとして行動せざるを得ません。

価格の自由は法律上の建前

このように、売り手が自由な価格で商品を提示できるというのは、法律上の建前に過ぎません。経済学者や経済学信仰者に見られる、転売擁護は、法律上の建前としての自由を数学的な自由と錯覚したものに過ぎません。もし、本気で売り手が自由な価格で商品を提示できると考えるならば、買おうとした直前に売り手が価格を吊り上げても、淡々とそれを容認できるはずです。

なぜ一物多価なのか?

ミクロ経済学には、一物一価という言葉があります。一つの商品に一つの価格という、ミクロ経済学のある種の理想を表現した言葉です。しかし、現実の経済では一物多価です。むしろ、一物一価が成り立っている商品は、価格の統制が許された統制経済下にある商品です。一物一価が成り立たないのは、価格のみではなく、価格以外を含めた費用全体を経済における選択の対象としているからです。

価格のみではなく、費用全体を選択の対象としている

価格のみではなく、予想する全体の費用、期待全費用とでも呼ぶべきものが最小となるような行動を取ります。ミクロ経済学に、費用最小化の原則とか呼ばれるものがあります。この費用とは、金銭的費用だけでなく、時間等を含めた、取り引きに関わる全体の費用が対象となります。価格だけを見れば、費用最小化の原則に合っていても、全体を見れば、費用最小化の原則に合わないことはよくあります。そういう時に、経済における選択の対象となるのは、全体における費用が最小になるような行動です。

残りの費用が最小となるような選択をする

工事中とかで、途中で最初の予定が実行できないことがわかることがあります。この場合の選択は、予想する、残りの全体の費用が最小になるような選択をします。期待残費用とでも呼ぶべきものが最小となるような行動を取ります。着手前の選択については、残りが100%の場合と考えることができます。

注意する必要があるのは、ある意味、主観的な費用であることです。既に投入してしまって取り戻すことのできない費用、サンクコストとか、埋没費用と呼ばれるものに価値判断が引き摺られる、「コンコルドの誤り」とか「コンコルド効果」とか呼称されるものがあることが知られています。純粋に客観的な判断としては、サンクコストを無視することが正しくなりますが、主観は、サンクコストに引きずられがちです。

価格は費用の一つに過ぎない

価格は、取り引きに関わる全体の費用の一つに過ぎません。客観的な値が公開されているということで、多少、他の費用と違いがあったりするだけです。客観的な値が明示されていることから、他の費用よりも重視されることがあります。しかし、不確定なリスクを回避する場合等は、逆に、客観的な値が明示されている価格は、軽視されることが普通です。保険という制度が成り立つのは、不確定なリスクより、客観的な値が明示されている価格を軽視するからです。

止まっている時計も一日に二度正しい時刻を指す

全てが間違っているということはありえない。

どんな壊れた時計でも一日に2回は正しい時刻を示す。

マーク・トウェインの名言』らしいです。アナログ型の普通の12時間単位の時計は、止まっていても、一日に二度正しい時刻を指します。

当たり前のことですが、意外と忘れられています。偶然、正しい、ということが起こります。結果が正しいということは、論理等が正しいということを示してはいません。都合の良い結果だけを取り出すなら、止まっている時計を正しく動いているかのように主張することすら可能です。

医薬品には、二重盲検法というのがあります。そこまで厳密でなくとも、正しい評価を得たいなら、都合の良い結果だけを取り出すことの無いような手法を用いる必要があります。

「国の借金」という言葉に騙されるな

「国の借金」という言葉を聞いたら、眉にツバした方がいいです。現在の日本において、「国の借金」という言葉で語られるのは、ほぼ全てウソです。「国の借金を語る」のではなく、「国の借金を騙る」のが実態です。なお、ここでは、現在の日本における円建てのものを指していますが、MMTで言うところの主権通貨建であれば、同様のことが言えます。

「国の借金」と呼ばれているものには、以下のような問題があります。

  • 「国」ではない
  • 返済する必要はない
  • 事実上、返済できない

「国」ではない

「国の借金」と言いながら、「国」ではありません。現在の日本という国には借金はありません。厳密には、貸している額が借りている額より相対的にはるかに多く、差し引きの借金の額はありません。貸している側です。

悪質な国の借金詐欺』で書いているように、「国の借金」ではなく、政府の債務です。国民は債権者側です。正反対です。

返済する必要はない

「国の借金」と呼ばれている、政府の債務は、返済する必要がありません。踏み倒して良いという意味ではなく、借り換え等を行えば良いということです。額を減らす必要が無いということです。

政府の債務とはある種の名称に過ぎない

政府の債務とはある種の名称に過ぎません。『政府の債務は借金ではなく、単なる約束事』に書いているように、政府の債務と呼ぶと定義しているから、政府の債務と呼ばれているに過ぎません。発行済みの、政府の国債や日銀の日本銀行券(紙幣)について、その分を債務として計上するのは、定義がそうなっているからに過ぎません。

「1は素数ではない」というのが、現代の数学の定義です。素数だとしてしまうと、素因数分解の解が無限に存在する等、不都合が生じてしまいます。したがって、「1は素数ではない」という定義になっています。政府の債務についても同様のことが言えます。最終的には、日銀が円を発行して、国債を買い取ってしまえば済みます。そして、日銀は、古い日本銀行券を新品と交換する程度の義務しか負いません。日本銀行券を受け取って、何かを返済するわけではありません。

政府の債務は国民の財産

「国民の財産を減らせ」と叫ぶ人々』で書いたように、政府の債務は国民にとっては、財産です。政府の債務を減らすということは、国民の財産を減らすことです。国民を貧しくすることです。本来、マイナスの価値しかありません。

財政健全化とかPB黒字化とか、一見、素晴らしく聞こえますが、都合の良い側だけを見せられているに過ぎません。相手となる国民の側から見ると、国民窮乏化、国民赤字化です。

債務と債権は、同額です。借りた額と貸している額は同額です。政府が債務を引き受けることにより、国民が債権を得ることができるわけです。財産を得ることができるわけです。

事実上、返済できない

政府の債務は、一般に、事実上、返済できません。ごく小さな国であるか、一時的なものであれば、減らすことは可能です。しかし、日本のようなある程度以上大きな国が、長期的に政府の債務を減らし続けるのは、一般に不可能です。

債務を減らすということは、債権者側から見ると、債権を減らすことです。財産を減らすことです。家計の債務の場合、債権者の多くは大きく、国全体の経済から見ると、債務は微小です。したがって、家計においては、債務を減らすことが、債権者や国全体の経済に影響を与えないかのように近似できます。

しかし、政府の債務に関しては成り立ちません。政府の債務の場合、債務者の方がはるかに巨大で、国全体の経済における大きな部分を占めています。したがって、政府の債務に関しては、債務を減らすことが、国民や国全体の経済に大きな影響を与えると考えなければなりません。

政府の債務を減らすということは、国民の側から見ると、債権を減らすことです。財産を減らすことです。普通の人は、唯々諾々と財産を減らしたりはしません。財産を減らされそうになった人々は、支出を減らして、財産が減りにくいようにします。支出を減らすということは、相手側から見ると所得を減らすことです。つまり、政府の債務を減らそうとすると、国民は、所得を減らし合おうとするということです。結果として、国全体の経済が悪化します。すると、所得税法人税等の税収が減少し、失業の増加に対する補助金等の支出が増加します。政府の債務を増やす方向の作用が生じます。

政府の債務を減らそうとすることと政府の債務を増やす方向の作用とどちらが大きくなるでしょうか?単純に言い切ることはできません。しかし、全ての人々が失業したらどうなるだろうか、といった思考実験はできます。全ての人々が失業したとしても、その人々が生きていくためのお金は要ります。失業して所得がなくなっても、生きていくための支出は要ります。支出ばかりが政府に残ることになります。つまり、政府の債務を減らそうとしても、支出が残るため、政府の債務は逆に増えることになります。

こういうことを言うと、「ドイツはどうなんだ?」と批判する人がいそうです。しかしながら、ドイツはユーロです。ドイツ政府が債務を減らした時、相手側が債権を減らしたりする範囲は、ドイツ国内に制限されません。債権を減らしたりすることを他国に押し付けることが可能です。

冷却の為の水の使い捨ては普通

AIと水資源:ChatGPTの冷却に必要な水の量は原子炉レベル?』という記事に対して、『冷却水は循環させる』というようなコメントがいくつもありました。残念ながら、これは間違いです。冷却の為に水を使い捨てるシステムは、いくらでもあります。

例えば、日本の火力発電所原子力発電所は、全て、最終的な冷却のために水を使い捨てているはずです。温排水という用語すらあります。きれいな大量の水という目的のために淡水ではなく、海水ですが、理屈の上では淡水が望ましいはずです。

発生した熱は、どこかに捨てる必要があります。内部の冷却のために水を循環させることは、最終的な冷却のために水を使い捨てることを否定しません。むしろ、火力発電所原子力発電所は、内部の水の循環と最終的な水の使い捨てを行っています。