客観的という幻想

絶対的な客観性は存在しない。どのような見方であっても主観が紛れ込む。哲学においてとっくの昔に結論がでていることだが、多くの人は全く知らないようである。
「客観的な事実」という言い方をするが、これは客観性の高い事実ということにすぎず、主観が入っていない事実ということではない。「事実」はけっして主観から自由なものではない。たとえ機械を使っても、何を計測するか、得たデータがどのような意味を持つか、といった点から主観が入ってくる。

「事実の理論負荷性」とか「認識の理論依存性」とか呼ばれる科学哲学の用語がある。事実が広い意味での理論(仮説、常識、信念などを含む)に依存しているということを示す用語である。
「犬がいる」という事実は「それは犬である」という判断に依存している。事実に基づいて判断するとかいうが、本当は、事実自体がまず判断に依存している。判断は、それを行う主体無しには成立しない。判断を行う人間のものの見方から自由ではない。

主観が入ってくることを認識しているからこそ、その主観を排そうとすることができる。自分の意見、自分たちの意見を客観的と形容する人々は、紛れ込む主観に無自覚、無警戒なだけであり、むしろ、どっぷりと主観に浸かっている人々である。