ご都合主義な一般均衡モデル

これまで部分均衡モデルを念頭において批判してきた。では、一般均衡モデルにおいてはどうだろうか。1つの商品の需要と供給とにより1つの商品の価格と数量とが一意に決まるというのが部分均衡モデルであるのに対して、多数の商品の需要と供給とにより多数の商品の価格と数量とが一意に決まるというのが一般均衡モデルである。一般均衡モデルでは、各商品の価格と数量とを変数とする連立方程式として経済をあらわし、価格も数量も正である条件下で方程式の解がただ1つ定まる。

一般均衡モデルに対しても部分均衡モデルに対する批判と同じ批判が成り立つが、それだけではなく、一般均衡モデルのみの問題点も存在する。それは、一般均衡モデルが、絶対的な価値観を前提としていることである。

価値観は主観的なものであり、ある商品に対してどれだけの価値があると見なすかは各個人によって異なる。どの価値観が正しいということはなく、どれだけの価値があると見なすのが正しいということはない。人によって価値が違うから、市場によって価格を決める必要がある。価値観が絶対的なものならば、必ずしも市場によって価格を決めなくともよい。価値観が全面的に絶対的なものだとすると、それは市場の否定につながる。

一般均衡モデルでは、全面的に絶対的な価値観を前提としているわけではない。しかし、商品の分類に関しては、絶対的な価値観を前提としている。同じ種類のものと見なすか異なる種類のものと見なすかは価値判断の結果による。同じ商品と見なすか異なる商品と見なすかは価値判断の結果による。価値判断をもたらす価値観が絶対的でなければ、同じ商品と見なすか異なる商品と見なすかが異なってくる。「売れ残った時の対処」のエントリに「その日に作られたコンビニ弁当と前日に作られたコンビニ弁当とを買い手は通常同じ商品とは見ない」と書いたように、同じ商品と見なすか異なる商品と見なすかは、現実には全ての人に共通というわけではない。ある商品か否かが客観的に定義できないということは、その商品の価格や数量も客観的に定義できないということである。一般均衡モデルでは、商品の価格や数量を客観的に定義できるとするために、絶対的な価値観を前提とせざるを得ない。

実際には、分類は主観から逃れられず、価値観から自由ではない。生物の分類学ギリシャ・ローマの時代からあるのに科学として完成していないのは、価値観から自由ではないからである。日本語では水と湯とを区別するが、英語では "water" だけである。日本語では藍色と青とを区別するが、英語では "indigo blue" と呼ぶように藍色を "blue" の一種と見なす。このように、現実の社会でも分類は絶対的なものではなく、特に文化的な影響を受けやすい。

商品の分類を絶対的なものとし、商品の分類に関して絶対的な価値観を前提とすると、商品の価値に関して問題が生じる。商品のある特性について、分類に使う時は絶対的な価値観に基づいて判断し、商品自体の価値を考える時は主観的な価値観に基づいて判断するということになってしまう。

一般均衡モデルでは、絶対的な価値観と主観的な価値観との両方を前提とせざるを得ないがそれを矛盾なく両立できるとは思えない。