商品1個ごとにレジに並び直す?

分けて買う必要が無い時、10個の商品を買うためにレジに何回並びますか?10回ですか?5回ですか?1回ですか?

何、バカなことを言っているのだ?と思うかもしれません。分けて買う必要が無いならば、1回レジに並ぶだけのはずです。しかし、これまでのミクロ経済学では、10回レジに並ぶことを否定できません。ミクロ経済学の部分均衡モデルや一般均衡モデルでは、移動等の取引に付随する費用(以下、移動等の費用)を無視しているからです。なお、このエントリーでは、特に断らない限り、時間等も費用に含めます。

ゼロを何倍してもゼロであり、レジに何回並んでもゼロです。レジに何度も並ぶという行動を、部分均衡モデルや一般均衡モデルでは否定できません。もちろん、現実の経済では、分けて買う必要が無いならば、レジに1回並ぶだけです。

現実の経済では、移動等の費用も含めて経済判断しています。それに対して、これまでのミクロ経済学では、移動等の費用を無視して経済判断しているということです。そのため、ミクロ経済学のモデルにおける経済判断は、現実の経済における経済判断とは全く別のものになっている場合があります。

皮肉なことに、「レジに1回並ぶだけ」という行動は、経済学でいうところの限界費用で説明できます。2個目以降の商品は、並び直すと、商品の代価だけでなく、並び直す費用も余計にかかることになります。限界費用が多くなるわけです。現実の経済では、限界費用の小さな「レジに1回並ぶだけ」という行動を選択することになります。 この限界費用の違いが、移動等の費用を無視するミクロ経済学では発生しません。移動等の費用を無視することにより、間接的に限界費用の違いも無視しているということです。

経済学の十大原理と呼ばれるものの一つに「合理的な人々は限界原理に基づいて考える」というのがあります。しかし、ミクロ経済学者は、これに反していることになります。だから、「ミクロ経済学者は『合理的な人々』ではない」と、私は主張しています。

致命的なことは、移動等の費用の無いモデルを基に、移動等の費用のあるモデルにすることが、一般に不可能だということです。現実の経済に近いモデルにすることが、一般に不可能だということです。移動等の費用のあるモデルは、最初から作り直すしかありません。

時間的な順序等のある場合は、それを入れ替えることは、一般に不可能です。例えば、「店に行く」費用は、「店で商品を買う」以前に発生するので、「店で商品を買う」後で追加することはできません。移動等の費用の無いモデルに、移動等の費用を追加することは、数学的に、一般に不可能です。

移動等の費用の無いモデルである、部分均衡モデルや一般均衡モデルが現実の経済の適切な近似になっているという根拠はありません。もちろん、まぐれ当たりはあり得ます。以前に述べたように「止まっている時計も一日に二度正しい時刻を指す」のです。

移動等の費用は無視できない

移動等の費用について、あらためて考えてみましょう。移動等の費用が経済判断において重要であることは、以下のような仮定をして考えてみることでわかります。

  • 店Aと店Bがある。両者は、商品の価格、移動する費用等、取引条件は同等である。
  • 買いたい商品は、同じ種類のノート2冊(例として挙げただけ、重量等が無視できるような、同じ種類の商品なら何でも良い)。
  • 売り切れや在庫の減少等は無視できる。

上記のような仮定の下で経済判断をすると、店Aで2冊買う確率が50%、店Bで2冊買う確率が50%となります。しかし、純粋に移動等の費用を無視した場合の確率は、店Aで2冊買う確率が25%、店Bで2冊買う確率が25%、そして、両方で1冊ずつ買う確率が50%となります。

移動等の費用が無い場合に発生する、両方の店で買うという事象が、現実的な仮定の下では発生しません。現実的な仮定の下では、どちらかの店でのみ2冊買います。両方の店で買うと、店Aと店B間の移動の費用が余計に発生するからです。

このように、経済判断する時点で、移動等の費用が含まれています。少なくとも、移動等の費用の無い経済判断が生じているという根拠は見当たりません。

移動等の費用の無いモデルを基に移動等の費用の有るモデルは作れない

移動等の費用の無いモデルを基に、移動等の費用の有るモデルにすれば良いという反論は、間違いです。一般にそれは不可能だからです。なぜならば、計算の順序は一般に変更できないからです。数学的に言うならば、「合成関数の交換法則は一般に成り立たない」と言っても良いでしょう。

例えば、「店に行く」費用は、「店で商品を買う」以前に発生するので、「店で商品を買う」後で追加することはできません。お金の分だけなら追加できても、時間等の分は追加できません。数学的に、合成関数の交換法則は一般に成り立ちません。合成関数f(g(x))は、一般にg(f(x))と等しくありません。

移動等の費用の無いモデルに、移動等の費用を追加することは、数学的に、一般に不可能です。つまり、移動等の費用の無いモデルだけでは、現実の経済に対する根拠にはならないということです。

摩擦の無いモデルを基に摩擦の有るモデルは作れる

摩擦の無いモデルを基に摩擦の有るモデルを作るようなものだと、再度、反論する人々がいるかもしれません。しかし、こうした人々は、大きな違いを無視しています。確かに、自然科学の多くでは、理想気体や完全黒体等、理想化・抽象化したものを基に考えます。しかし、これらに作用する理想化・抽象化できない要素は、理想化・抽象化したものと同時に作用しているものです。従って、時間的な前後関係はありません。あくまでも、表記上の前後関係しかありません。「a+b」が「b+a」と等しいようなものです。

摩擦が無いモデルを基に摩擦が有るモデルができるのは、摩擦が他の力と同時に作用しており、力の一種として扱えるからです。空気は理想気体ではありませんが、理想気体としての作用と理想気体ではないことによる作用が同時に作用していると見なすことができます。時間的順序関係があるモデルでは、このようなことはできません。

つまり、例外的に交換法則が成り立つモデルを基に、あらゆる合成関数に交換法則が成り立つかのように、経済学者たちは主張していた、ということです。しかし、関数「f(x)=x+a」と関数「g(x)=x+b」の間に交換法則は成り立ちますが、関数「f(x)=sinx」と関数「g(x)=10x」の間に交換法則は成り立ちません。

「摩擦の無いモデルを基に摩擦の有るモデルが作れるニュートン力学のようなものこそ例外」と思うべきです。

さらに言うと、移動等の費用を無視すると同じ商品であると見なせても、移動等の費用を含めると異なる商品と見なさなければならない場合が出てきます。むしろ、個々の需要家にとっては、異なる供給者から供給される商品は、物理的に同じ商品であっても異なる商品であることになります。これは、完全競争市場の仮定を事実上否定します。需要家にとって、同じ商品を供給できるのは、同じ供給者のみです。

補足

なお念の為に言っておくと、移動等の費用の無いモデルを作るなと言っているつもりはありません。一種の思考実験として、移動等の費用の無いモデルを作ることは否定しません。ただ、それをそのまま現実の経済に適用するなと言っているつもりです。移動等の費用の無いモデルを、現実の経済に対して無闇に拡張するなと言っているつもりです。