努力は報われないかもしれない

「努力は報われてほしい」という願望は、私にもあります。なろう系とか呼ばれるジャンルに、婚約破棄とかパーティー追い出しとかが多いのは、それが理由の一つかもしれません。いや、異世界転生とか異世界転移ものも、そうかもしれません。

しかしながら、努力は報われないかもしれません。妨げる大きな二つの要素があります。

  • 間違った方向

運による影響は大きいです。ピカソの絵は、生前には2枚しか売れなかったそうです。メンデルの遺伝の法則は、死後再発見されて認められました。発明や発見では、死後にやっと認められた例は少なくありません。生前に認められた、乾式複写の発明も10社以上に特許の価値が理解されなかったそうです。発明された乾式複写機は、国内のほぼ全てのコンビニや大部分のオフィスにあるコピー機の祖先です。

努力の方向が正しいか否かは需要です。努力しても逆効果になるかもしれません。人間の知識や思考力は有限です。間違っているかもしれません。天動説やフロギストン説等間違った説が広く信じられていたことは、何度もあります。努力の方向が間違っていることも有り得ます。

努力の方向が正しいか否か確認するのは、重要ですが、神ではないので、限界があります。やるべきでないのは、努力がムダになるのを恐れるあまり、努力の方向に都合な良い情報ばかりを集めたり、不都合な情報をそれだけで拒絶したりすることです。残念ながら、しばしば見られます。前者に確証バイアス、後者にセンメルヴェイス反射という名前がついているほどです。皆無にはできませんが、そういう傾向があると自覚して、警戒するべきです。

自分が中立的か否かは判断できません。自分が中立的であると思い込むのが一番危険です。まさに、確証バイアスやセンメルヴェイス反射にはまりこんでいる人ほど、自分が中立的であると錯覚している危険があります。

完全競争市場という名の完全妄想市場

現実経済の市場は、ミクロ経済学の反証に満ちています。ここに挙げているのも、その一つです。

完全競争市場ではなく、完全妄想市場、百歩譲っても完全願望市場と呼びたい程です。現実経済の市場をモデル化したものではなく、ミクロ経済学者の願望をモデル化したものと言えます。ミクロ経済学者の現実経済の市場がこうなっていて欲しいという願望をモデル化したものが、完全競争市場と言えます。

完全競争市場は、以下のような条件を満たすものとされています。

  • 材の同質性
  • 参加者の多数性(需要家や供給者の数が無限大と見なせる)
  • 完全情報
  • 参入・退出の自由

これらのうち、最も問題になるのが、「材の同質性」です。保有しているだけなら、「材の同質性」を満たしても、取引する際には、「材の同質性」を満たさないということが起こりえます。つまり、保有している「材」としては同質性を満たすが、取引する商品としては同質性を満たさないということが起こりえます。むしろ、普通に起きています。それが、『同じ商品でも買い手は売り手を選択する』ということです。

ある一般的な商品を買おうとすると、買いに行くとか、ウェブサイトを訪れるとかの手間がかかります。こうした、移動等の取引に付随する費用が商品の代価(価格と数量の積)とは別に発生します。ここでは、時間も費用として扱う必要があります。このように、取引条件に差が生じるため、保有しているだけなら、同じ商品、同じ材として扱えても、取引をする時点では、異なる商品、異なる材であるかのように扱うということになります。

異なる商品、異なる材であるかのように扱うということは、「材の同質性」を満たさないということで、完全競争市場の条件を満たさないということです。それだけではなく、需要の数量の和や供給の数量の和を単純には計算できないということです。例えば、リンゴ1個とミカン1個がある時、「リンゴ1個とミカン1個」と「果物2個」のどちらと見るのが正しいのかは、客観的には決められません。異なる商品、異なる材として扱うということは、単純に和を計算したりはできないということです。もちろん、単なる物理的数量として扱えば良い場合は、単純に和を計算して構いません。

このように、保有しているだけなら「材の同質性」が成り立っても、取引をする時は「材の同質性」は一般に成り立ちません。取引条件に差が生じるため、取引全体の費用が異なり、ある種の独占市場に成ります。これが『現実の市場は小さな独占市場の集合』ということです。

取引相手を選択していることは、時間の経過と取引相手の数が比例しないことでもわかります。『一年間に訪れる店の数は、一週間に訪れる店の数の50倍位になるはずです』ということになります。同じ商品を同じものとして扱っているならば、どの店から買っても良いはずです。しかし、実際には、住む家の近所や通勤・通学先の近所、通勤・通学の経路の近所といった、限られた店からしか買いません。つまり、ほとんど無意識的に選択しているということです。

一部の取引所のように、取引が成立するまで、取引相手がわからないという場合もあります。取引相手によって差が生じず、取引条件が同じになる仕組みになっています。しかし、この場合、「材の同質性」を確保するため、取引の仲介者が必要です。仲介者が材を確認しないと同質性が保てません。この場合、仲介者の「参加者の多数性」や「参入・退出の自由」には、無理があります。仲介者の利潤と、仲介者の「参加者の多数性」や「参入・退出の自由」は、矛盾します。仲介者の利潤を否定すると、仲介者に無料奉仕を求めることになります。仲介者のなり手がいなくなってしまいます。

(2023/01/23修整:箇条書きが乱れていたのを修整)

世界は売れ残りで満ちている

現実経済の市場は、ミクロ経済学の反証に満ちています。ここに挙げているのも、その一つです。厳密に言うなら、完全競争市場に対する反証です。

日本では、大量の商品が様々な店の店頭で売られています。商品の種類や数の違いこそあれ、大量の商品が様々な店の店頭で売られていることはどこの国でも同じでしょう。これらの店頭で売られている商品は、店頭在庫とも呼ばれます。これらはある種の売れ残りです。通常の、期待した期間内では売れなかったという意味の売れ残りではありませんが、市場に供給したにもかかわらず売れていないという点で、売れ残りには違いありません。世界は売れ残りで満ちています。

このことは、現実経済の市場においては、個々の供給者が需要の制限に直面していることを示しています。つまり、完全競争市場において想定されている、「各々の供給者は、市場価格で水平な需要曲線をもつ(市場価格で無限大の需要をもつ)」かのように行動するという仮定が全く当てはまっていません。

供給しても、売れなければ損が拡大するだけです。需要の数量と一致するように供給するのが、利潤最大化の原理に従うことになります。需要の数量は、価格により一意に決まるものではありません。従って、現実経済の市場では、一般に供給曲線は成り立ちません。敢えて、供給曲線を求めるならば、供給数量一定の場合くらいでしょう。

個々の供給者が需要の制限に直面しているということは、現実経済の市場が完全競争市場とは大きく異なる異なることを暗示します。実際、供給曲線が成り立たないので、個々の供給者の供給の数量は、完全競争市場の数量とは、全く異なる仕組みで決まることになります。

損益分岐点分析に反する供給曲線

現実経済の市場は、ミクロ経済学の反証に満ちています。ここに挙げているのも、その一つです。

損益分岐点分析(Cost Volume Profit Analysis)とは、会計分析の一つで、費用・販売数量に基づく利益を分析する手法です。

損益分岐点分析では、費用を固定費と変動費に 分けますが、この時、変動費を数量に比例する傾き一定の直線と見なします。すなわち、ミクロ経済学で言うところの収穫一定です。それに対して、ミクロ経済学の右上がりの曲線を導き出すのは、収穫逓減の仮定です。

このように、損益分岐点分析と右上がりの供給曲線は、相容れません。しかし、右上がりの供給曲線に対して疑問を呈する人々はいても、損益分岐点分析に対して疑問を呈する人は聞いたことがありません。

同じ商品を区別しないというミクロ経済学の反現実的仮定

同じ商品を区別しないという、部分均衡モデルや一般均衡モデル等のミクロ経済学の仮定は、反現実的です。ほとんどバカげていると言っていいほどです。なぜなら、私達は一般的な商品を買う時、同じ商品であっても区別しているからです。あまりにも無意識的に区別しているため、区別していないと錯覚しているかもしれませんが、区別していることに疑いの余地はありません。

ある一般的な商品を複数買うことを考えてみましょう。同じ商品が複数であっても、売り切れとかでない限り同じ売り手(供給者)から買うはずです。つまり、売り手の異なる同じ商品を区別しているということです。買った後では区別していなくても、買う時は区別しています。もし区別していないならば、複数の売り手から買ってもいいはずです。むしろ、潜在的な売り手の数を考え、同じ商品を区別しないならば、n個の商品をn人の売り手から買う方が自然です。

このように、私達は、取引相手が異なれば、同じ商品であっても区別しています。例外は、取引成立まで取引相手を知ることができない一部の取引所における取引くらいです。買い手(需要家)が売り手より少ない場合は、売り手が買い手を区別することになりますが、取引相手が異なるという点から見れば同じです。

取引相手が異なれば同じ商品であって区別するということは、同じ商品であっても異なる商品であるかのように扱うということです。従って、需要の数量の和や供給の数量の和を求めることができるとは言えません。単なる物理的数量としての数量の和は、求めることができます。しかし、経済においての扱いが異なるということは、単純に需要の数量の和や供給の数量の和を求めることができないということを示しています。

需要と供給の一致に価格は必要ない

需要の数量と供給の数量が一致することに価格は必要ありません。一致すること自体は、単なる物理的現象に過ぎません。

例えば、水道の蛇口にホースの一方を付けることを考えてみましょう。蛇口からホースに単位時間あたりに流れ込む量とホースのもう一方から単位時間あたりに流れ出す量は、ある程度の時間が経てば、蛇口の開度が一定ならば、等しくなります。ここで、ホースに単位時間あたりに流れ込む量を供給の数量、ホースから単位時間あたりに流れ出す量を需要の数量と考えれば、需要の数量と供給の数量が一致することは、単なる物理的現象に過ぎないことがわかります。

単位時間あたりに流れ込む量と単位時間あたりに流れ出す量は、有限な空間であれば、最終的には一致します。これは、単なる物理的現象です。需要の数量と供給の数量が一致すること自体には、価格を考える必要はありません。

投資は需要で決まる

投資は需要で決まります。厳密に言うなら、投資の額は、金額換算した需要の数量の予想される値(需要の期待値)で決まります。

投資は、供給のピークが供給能力の上限にある程度近づいた段階で行う必要があります。供給のピークが供給能力の上限で抑制されることと供給能力の増強にある程度と時間がかかるためです。『供給は需要で決まる』ため、投資も需要で決まることになります。

投資は、金利にはさほど影響されません。部分均衡モデルとは異なり、現実の経済では、商品の供給はほぼ収穫一定であり、各供給者は市場価格が限界費用をある程度上回る状態で供給しているからです。部分均衡モデルのように、収穫逓減であり、市場価格と限界費用が一致するレベルで供給しているならば、金利の上下で、供給を増減する必要があります。しかし、現実には、市場価格が限界費用をある程度上回る状態で供給しているから、金利は、供給にさほど影響を与えず、投資にもさほど影響を与えません。