国の借金詐欺

『成長で財政は黒字化』と高をくくる人に伝えたい 借金をツケ回すコスト=利払い費が増えてゆく」という記事があまりに酷いので反論します。

すぐ分かる問題点が二つ。

  • そんなに利払い費が心配なら、何故、債権放棄を提唱しないのか?
  • ほとんど全ての国債は、固定金利であり、金利が上昇しても利払い費は増えない。

そんなに利払い費が心配なら、何故、債権放棄を提唱しないのか?

そんなに利払い費が心配なら、何故、債権放棄を提唱しないのですか?債権放棄は、あくまでも権利の放棄ですが、政府が保有し、国会決議で方針が左右される機関ならば、国会決議を無視できません。最悪、法律を改定することもできます。国債保有している政府関係の機関には国債を放棄させることが理論的には可能です。国債の半数以上は、日銀が保有しており、国会決議を無視できません。

実際には、日銀が保有している国債の利払いや元金は、自動的に国庫に納付されます。差し引きゼロです。節約できるのは、事務手数料程度であり、手続き変更のコスト等を考えると割に合わないかもしれません。

逆に言えば、国債過半数を日銀が保有している以上、利払い費は、相対的に見るとさほど大きくなりません。

ほとんど全ての国債は、固定金利であり、金利が上昇しても利払い費は増えない

ほとんど全ての国債は、固定金利であり、金利が上昇しても利払い費は増えません。個人向けに変動金利国債があるだけです。

もちろん、償還分の国債に見合う国債を発行すると、その国債については、上昇した金利に合わせる必要があります。しかし、その場合は、金利の上昇に先立ち、景気が回復しているはずなので、政府支出は相対的に減少し、政府収入は相対的に増加しているはずです。したがって、国債の発行分も相対的に減少しているはずです。

景気が回復せず、金利だけ上昇したらどうする?と反論する人も、いるかもしれません。しかし、そんなことが起きるでしょうか?どういう仕組みで、そんなことが起きますか?そう考えていくと、金利だけ上昇するというのは、根拠のない、反論のための反論に過ぎないことがわかります。

日銀は、円を理論的には無限に発行できます。利払い費等、気にする必要はありません。気にしなければならないのは、インフレ率です。円を発行し過ぎれば、インフレ率が上昇するので、円の発行し過ぎに注意を払う必要があります。

補足

そもそも、利払い費を減らして、国民に何の利益があるのか?という問題もあります。「所得は支出の結果」で書いたように、誰かの所得は、別の誰かの支出の結果です。政府が利払い費を減らすことは、国民全体から見ると、国民の所得を減らすことに他なりません。利払いによる不公平の是正の必要はありますが、利払い費そのものを否定するのは、マクロ経済の無知と言われても仕方ないでしょう。

所得は支出の結果

誰かの所得は別の誰かの支出の結果です。このことを理解せず、あたかも、天から降ってきたり、地から湧いていくるかのように思っている人々が多すぎます。

所得として受け取れるお金は、支出として支払われたお金です。したがって、社会全体としては、「支出=所得」です。社会全体として所得を増やすには、社会全体として支出を増やすしかありません。逆に言えば、社会全体として支出を減らすことは、社会全体として所得を減らすことです。

弱者保護が必要なのは、人道的理由だけではありません。純粋に経済的利益から言っても、弱者保護は必要です。多くの弱者は、得たお金をすぐ使ってしまいます。弱者のために使われたお金は、すぐ、別の誰かの所得となるわけです。そして、その所得が増えた人々が、さらにお金を使うことにより、別の誰かの所得となります。このようにして、社会全体の所得が増えることになります。

逆に、豊かな人々は、得るお金が増えても、増えた分の多くが貯蓄等に回ります。そのため、支出はさほど増えず、別の誰かの所得をさほど増やしません。

支出を増やせば増やすほど、その支出を受け取る側の所得は増えます。所得が増えた人々が支出を増やせば、別の誰かの所得が増えます。このようにして、社会全体の所得が増えます。

逆に、支出を削減すれば、その支出を受け取る側の所得は減ります。所得が減った人々が支出を減らせば、別の誰かの所得が減ります。このようにして、社会全体の所得が減ります。

このように、支出の減らし合いは、間接的には、首吊りの脚の引っ張り合いです。だから、私は、緊縮政策ではなく、虐殺政策と呼んでいるほどです。

ミクロ経済学が間違っている証拠

商品1個ごとにレジに並び直す?そして同じ商品という大ウソ個々の需要家は一人の供給者からしか買わないミクロ経済学の基礎的な間違いを指摘してきました。しかし、ミクロ経済学が間違っている証拠は、まだまだ、見つけられます。

見つけ易いものを三つほど挙げます。

  • 多種多様な商品が売り切れることなく、店頭に並べられている。
  • 熱い飲食物は冬に、冷たい飲食物は夏に、主に売られる。
  • 管理会計上の重要な分析の一つとして損益分岐点分析がある。

上二つは当たり前のことであり、ミクロ経済学が間違っている証拠になるのかと疑問に思う人もいるかもしれません。しかし、これらは、ミクロ経済学が間違っている証拠です。一番下の損益分岐点分析については、知らない人も多いかもしれませんが、検索すれば、いやと言うほど説明が見つかります。

多種多様な商品が売り切れることなく、店頭に並べられている

多種多様な商品が売り切れることなく、店頭に並べられています。売り切れは、鮮度が重要な食品等や、天災等による流通関係のトラブル以外、あまり発生しません。売り切れは、供給者にとって機会損失なので、供給者は、在庫増による費用増に見合う範囲で売り切れを避けようとします。

店頭に並べられている商品は、店頭在庫ともよばれますが、これらは、一種の売れ残りです。一般的な意味での売れ残りではありませんが、売り出しているのにまだ売れていないという意味での売れ残りには違いありません。

売れ残りがあるということは、潜在的な供給能力が需要の数量を上回っているということです。供給の数量が需要の数量を上回り続ければ、売れ残りが増え続けますから、供給者は、供給の数量を抑制して需要の数量と釣り合うように加減します。

完全競争市場では、各々の供給者は、無限の需要を持つと見なせると仮定されています。しかし、現実の経済では、各々の供給者は、有限の需要に直面しています。各々の供給者の供給する数量は、各々の供給者に対する需要の数量で決まります。

熱い飲食物は冬に、冷たい飲食物は夏に、主に売られる

熱い飲食物は冬に、冷たい飲食物は夏に、主に売られます。しかしながら、温めたり、冷やしたりする費用は、温度差が少ないほど少なくてすみます。つまり、熱い飲食物は夏の方が、冷たい飲食物は冬の方が、費用が少なくてすみます。もし、ミクロ経済学が主張しているように、価格が限界費用と一致する数量で供給するのならば、供給者たちは、熱い飲食物は夏に、冷たい飲食物は冬に多く売ることになります。

そうではなく、熱い飲食物は冬に、冷たい飲食物は夏に、主に売られます。予想できるでしょうが需要の多寡が原因です。

管理会計上の重要な分析の一つとして損益分岐点分析がある

管理会計上の重要な分析の一つとして損益分岐点分析があります。ある程度以上の経営知識を持つ人々にとって、損益分岐点分析の知識は必須と言えると思います。

損益分岐点分析では、供給する数量と無関係に発生する固定費と、供給する数量に応じて発生する変動費に分けて、費用を考えます。この時、変動費と供給する数量の関係は、直線で近似されます。ミクロ経済学で言うところの限界費用が一定であると、損益分岐点分析では見なします。ミクロ経済学では、限界費用逓増で、供給する数量以上のペースで費用が増えるとしています。

このように、現実の経済は、完全競争市場とは、似ても似つかないものになっています。それに対して、小さな独占市場の集まりという私の主張とは矛盾しません。

個々の需要家は一人の供給者からしか買わない

ほとんどの現実の市場において、ある商品を買う時、「個々の需要家はたった一人の供給者からしか買いません」

これは、一種の比喩であり、そう見なすことができるということです。そう見なして、供給者の行動も考えることができるということです。

「個々の需要家はたった一人の供給者からしか買わない」ので、現実の経済は、小さな独占市場の集まりとなります。独占市場の境界付近では、いわゆる裁定取引が成り立ち得るので、単純に独占市場が集まっただけのものとは、やや違います。

入手したものの区別の基準と、買う時の区別の基準は異なる

入手したものの区別の基準と、買う時の区別の基準は異なります。これは、時間の経過で基準が変化するという意味ではありません。買う時は、買うための移動等の取引に付随する費用(以下、移動等の費用)が発生するので、それが含まれなければならないということです。移動等の費用を無視していた、これまでのミクロ経済学では、両者の違いは意識されませんでした。しかし、移動等の費用を含めると、両者は異なるものになります。また、移動等の費用を含めると、需要家と供給者との移動等の費用は、需要家毎に別のものとなります。大まかには、移動等の費用は、需要家と供給者との距離に比例するような関係になります。

各々の需要家は特定の供給者からしか買わない

各々の商品について考えると、ある商品について、各々の需要家は、その需要家にとって特定の供給者からしか買いません。

例えば、コンビニエンスストア(以下、コンビニ)は、日本フランチャイズチェーン協会の2024年1月度の統計によると、店舗数が5万5千以上となっています。このエントリーの読者のほぼ全ては、この内の1%にすら行ったことがないでしょう。おかしな感じですが、ほぼ全てのコンビニに行ったことがないということです。行ったことがあるコンビニこそ例外だということです。

選択するのは、基本的に供給者であって商品ではありませんが、供給者を選択することにより間接的に商品選択することになります。つまり、商品を無差別選択するという、完全競争市場における仮定は成り立ちません。無差別選択どころか、例外的な極々一部の商品のみが選択されます。

需要家の移動については別の需要家に変わるかのように考える

需要家が移動することについては、移動することにより別の需要家に変わるかのように考えることができます。需要家は、通勤や通学等のため移動します。これらにより、別の需要家に変化するかのように見なせます。供給者にとって、需要の数量や顧客の数の観点からは、個々の需要家を一貫して識別する必要はありません。したがって、需要家が移動により別の需要家に変わるかのように見なすことができます。

なお、宣伝や広告の観点から、供給者が、需要家を識別することを否定するものではありません。

複数の供給者が競合する需要家は需要の数量を分割して考える

ここまでのように考えていくと、需要家と供給者は、ボロノイ図と呼ばれるもので近似できます。供給者がボロノイ図の母点となり、母点からの距離で分割します。境界上に当たる需要家については、要家は需要の数量を分割して考えることができます。例えば、一人の需要家の代わりに、半分の需要の数量の需要家が二人いて隣り合うと見なすことができます。

このように見なしていくと、個々の需要家はたった一人の供給者からしか買わないと見なすことができます。結果として、現実の経済は、小さな独占市場の集まりとなります。

補足

同じ商品という大ウソの末尾で述べているように、分類の主観性はみにくいアヒルの子の定理で証明されています。

また、株式等の取引所を介する商品の市場や、労働市場のような供給者の方が需要家より多い市場は、別に扱うつもりです。

色々な方向から見るべき

経済学を疑え!」というブログの「利益と健康のジレンマ:巨大製薬企業の原罪」というエントリーを読んで、ちょっと、反ワクチン側に偏っているなと感じました。もっと、別な見方もできるのに、と感じました。

予め、私の見方を断わっておくと、私は、「経済学を疑え!」どころか「経済学を信じるな!」、「学校で教えられる経済学は間違いだらけ」というような、超経済学懐疑派とでも呼べそうな考えの持ち主です。「商品1個ごとにレジに並び直す?」とか「同じ商品という大ウソ」のようなミクロ経済学の基本がおかしいというエントリーも書いていますし、「完全競争市場という名の完全妄想市場」と言っているほどです。経済に関しては、「経済学を疑え!」のブログに頷ける箇所も多いです。しかし、ワクチンに関しては、いわゆる反ワクチン派に傾倒しているかのように思えます。

エントリー中で特に気になったのは、以下の3点です。

  • 少し変えると反ワクチン側に対しても同様のことが言えそう。
  • ある程度の対症療法は必要。
  • 巨大製薬企業は一枚岩ではない。

少し変えると反ワクチン側に対しても同様のことが言えそう

この「利益と健康のジレンマ:巨大製薬企業の原罪」の内容は、少し変えると反ワクチン側に対しても同様のことが言えそうです。利益のためにおかしなことを言っていると、「反ワクチン活動が続くのは儲かるから」といった批判が既にされています。経済方面ですが、「日本円が暴落する」という主張を繰り返して、自分が管理している外債やデリバティブに誘導しようとしている人もいます。このように、自分の利益のために行動しているという批判は、どちらの側にも言えることです。あくまで、言っている内容が妥当か否かで判断すべきです。利益になるか否かは、発言の理由の推測にはなっても内容の妥当性とは別です。

ある程度の対症療法は必要

ある程度の対症療法は必要です。例を挙げれば、発熱もそうです。昔の水銀体温計の目盛は、42度までしかありませんでした。それ以上になると、人間が死んでしまうから、意味が無かったのです。発熱は、人体の防衛反応ですが、過ぎれば生命すら損ないます。このように、人体の防衛反応が過剰で人体を損ねることは、珍しくありません。人体の防衛反応を抑制することも時には必要です。

巨大製薬企業は一枚岩ではない

巨大製薬企業は一枚岩ではありません。エントリー中では、「ビッグ・ファーマと呼ばれる」と書かれていましたが、調べたところ、ビッグ・ファーマは、10社あります。これらの10社は、お互いが競争相手のはずです。

「人々を不健康にし、病気にするという罪」とエントリーでは書かれていましたが、納得できません。それは、巨大製薬企業を信用するからではなく、そんなことをして、巨大製薬企業に何の利益があるのか疑問だからです。ある巨大製薬企業が「人々を不健康にし、病気にする」ことにより、他の巨大製薬企業を儲けさせる意味は、ありません。ある巨大製薬企業が「人々を不健康にし、病気にする」ことにより、その巨大製薬企業自身が儲けられてこそ、「人々を不健康にし、病気にする」意味が、あります。ある巨大製薬企業が「人々を不健康にし、病気にする」としたら、他の巨大製薬企業のために、「人々を不健康にし、病気にする」ことになってしまいます。

巨大製薬企業同士だけではありません。巨大製薬企業内部でも、利益は相反することがあります。ワクチン部門と治療薬部門等がそうです。もし、非常に効果的なワクチンがあれば、治療薬の必要性は乏しくなります。逆に、非常に効果的な治療薬があれば、ワクチンの必要性が乏しくなります。

また、「反ワクチン活動が続くのは儲かるから」の中で、「一般論として世の中に出てくるワクチンは当初開発に取りかかったワクチンのわずか4%です」と書かれています。調べた限りでは、多少の上下はありますが、世の中に出てくるのは、開発したものの1割以下くらいのようです。つまり、開発はほぼ全て失敗しているということです。失敗する確率が高過ぎるワクチン開発に、巨大製薬企業のトップが心中するわけにはいきません。

むしろ、「深刻な副作用等が見つかったワクチンは、トップが切り捨てる」と考えるべきでしょう。もちろん、人間は常に合理的な正しい思考をするわけではありません。しかし、非合理な誤った思考をすると決めつけるのは、もっと問題でしょう。

同じ商品という大ウソ

商品1個ごとにレジに並び直す?」で、ミクロ経済学が移動等の取引に付随する費用(以下、移動等の費用)を無視していると批判しました。移動等の費用を無視することにより、更に問題が生じています。

異なる商品と見なすべきものを同じ商品と見なしてしまっていることです。異なる商品、もしくは同じ商品だが取引条件が異なるものと見なすべきものを単に同じ商品と見なしています。完全競争市場はこの代表です。なお、このエントリーでも、特に断らない限り、時間等も費用に含めます。

異なる商品を一緒にしている完全競争市場

異なる商品と見なすべきものを同じ商品と見なしてるのが、完全競争市場です。完全競争市場は、異なる商品を一緒にすることにより、理論が成り立っています。

本来ならば、需要家にとって供給者までの移動等の費用が発生するため、物理的に同じ商品であっても、異なる供給者の商品は異なる商品として扱う必要があります。同じ商品として扱って良いのは、あくまでそれを入手してからです。だが、そうすると、個々の需要家にとっては、同じ商品が、ある一つの供給者からしかられなくなるので、完全競争市場は、成り立たなくなります。

重要な取引条件である移動等の費用を無視すると、商品の区別が変わってしまいます。

重要な取引条件を無視すると、商品の区別が変わってしまうことがわかるのが、新幹線の指定席です。東海道新幹線の指定席は、一般にE席(グリーン車ではD席)から売れていくことが知られています。東海道新幹線の指定席の需要家にとって、一般にE席の方が価値があるからです。富士山が見易い窓際が好まれるからだと推測されています。眺めという要素を含めると、E席の方が価値があるということです。供給者側が価格差を付けないのは、眺めの価値が主観的なことや悪天候時の払い戻しの手間を考慮したのかもしれません。

完全競争市場においては、移動等の費用を無視しているから、同じ商品が無数の供給者から供給されるという仮定が妥当なものになります。しかし、移動等の費用を考慮に入れると、ある需要家にとって、同じ商品は、実質、同じ供給者からしか供給されないことになります。したがって、ある商品は、需要家から見ると、ある供給者からのみ買えることになります。つまり、現実の経済は、小さな独占市場の集まりということになります。独占市場の境界付近では、いわゆる裁定取引が成り立ち得るので、厳密な独占市場の集まりとは、やや違います。

各々の需要家が供給者を無差別に扱っていないこと、それにより商品を無差別に扱っていないことは、各々の需要家が特定の供給者からしか買っていないことで証明できます。供給者の変更は需要家の移動等で説明でき、理屈の上では、各々の需要家は一人の供給者からしか買っていないように見なせます。

商品について物理的な面から見なして、全体を俯瞰的に見る視点と、各々の需要家における、移動等の費用を含めた買う費用からの視点とでは、同じ商品か否かが異なります。各々の需要家における視点から市場が説明できなければなりません。

現実の経済では供給曲線は存在しない

独占市場では、供給者は需要の限度に直面し、供給曲線は存在しないことが、ミクロ経済学でも知られています。同様に、需要の限度に各供給者が直面するため、現実の経済では、一般に供給曲線は存在しません。経営分析の基本の一つである損益分岐点分析では、直線で近似します。一般に売れば売るほど利益が増えます。供給する数量を制限するのは、需要の限度であって、供給者側の費用の増加ではありません。

補足

同じ商品か否かといった分類が、各人の価値観に基づいた、ある意味主観的なものであることは、みにくいアヒルの子の定理と呼ばれる定理により、証明されています。純粋に客観的には、「アヒルの子同士」の類似度と「アヒルの子と白鳥の子」の類似度は同じになるという定理です。純粋に客観的にはあらゆるものが同程度似ている、という、ある意味凄まじい定理です。1969年に渡辺慧が提唱した定理ですが、人工知能機械学習が、この定理に直面するため、最近、話題になることが増えています。

また、このエントリーでは、一般的な商品の市場について想定しています。株式等の取引所を介する商品の市場や、労働市場のような供給者の方が需要家より多い市場は、別に扱う必要があるでしょう。

商品1個ごとにレジに並び直す?

分けて買う必要が無い時、10個の商品を買うためにレジに何回並びますか?10回ですか?5回ですか?1回ですか?

何、バカなことを言っているのだ?と思うかもしれません。分けて買う必要が無いならば、1回レジに並ぶだけのはずです。しかし、これまでのミクロ経済学では、10回レジに並ぶことを否定できません。ミクロ経済学の部分均衡モデルや一般均衡モデルでは、移動等の取引に付随する費用(以下、移動等の費用)を無視しているからです。なお、このエントリーでは、特に断らない限り、時間等も費用に含めます。

ゼロを何倍してもゼロであり、レジに何回並んでもゼロです。レジに何度も並ぶという行動を、部分均衡モデルや一般均衡モデルでは否定できません。もちろん、現実の経済では、分けて買う必要が無いならば、レジに1回並ぶだけです。

現実の経済では、移動等の費用も含めて経済判断しています。それに対して、これまでのミクロ経済学では、移動等の費用を無視して経済判断しているということです。そのため、ミクロ経済学のモデルにおける経済判断は、現実の経済における経済判断とは全く別のものになっている場合があります。

皮肉なことに、「レジに1回並ぶだけ」という行動は、経済学でいうところの限界費用で説明できます。2個目以降の商品は、並び直すと、商品の代価だけでなく、並び直す費用も余計にかかることになります。限界費用が多くなるわけです。現実の経済では、限界費用の小さな「レジに1回並ぶだけ」という行動を選択することになります。 この限界費用の違いが、移動等の費用を無視するミクロ経済学では発生しません。移動等の費用を無視することにより、間接的に限界費用の違いも無視しているということです。

経済学の十大原理と呼ばれるものの一つに「合理的な人々は限界原理に基づいて考える」というのがあります。しかし、ミクロ経済学者は、これに反していることになります。だから、「ミクロ経済学者は『合理的な人々』ではない」と、私は主張しています。

致命的なことは、移動等の費用の無いモデルを基に、移動等の費用のあるモデルにすることが、一般に不可能だということです。現実の経済に近いモデルにすることが、一般に不可能だということです。移動等の費用のあるモデルは、最初から作り直すしかありません。

時間的な順序等のある場合は、それを入れ替えることは、一般に不可能です。例えば、「店に行く」費用は、「店で商品を買う」以前に発生するので、「店で商品を買う」後で追加することはできません。移動等の費用の無いモデルに、移動等の費用を追加することは、数学的に、一般に不可能です。

移動等の費用の無いモデルである、部分均衡モデルや一般均衡モデルが現実の経済の適切な近似になっているという根拠はありません。もちろん、まぐれ当たりはあり得ます。以前に述べたように「止まっている時計も一日に二度正しい時刻を指す」のです。

移動等の費用は無視できない

移動等の費用について、あらためて考えてみましょう。移動等の費用が経済判断において重要であることは、以下のような仮定をして考えてみることでわかります。

  • 店Aと店Bがある。両者は、商品の価格、移動する費用等、取引条件は同等である。
  • 買いたい商品は、同じ種類のノート2冊(例として挙げただけ、重量等が無視できるような、同じ種類の商品なら何でも良い)。
  • 売り切れや在庫の減少等は無視できる。

上記のような仮定の下で経済判断をすると、店Aで2冊買う確率が50%、店Bで2冊買う確率が50%となります。しかし、純粋に移動等の費用を無視した場合の確率は、店Aで2冊買う確率が25%、店Bで2冊買う確率が25%、そして、両方で1冊ずつ買う確率が50%となります。

移動等の費用が無い場合に発生する、両方の店で買うという事象が、現実的な仮定の下では発生しません。現実的な仮定の下では、どちらかの店でのみ2冊買います。両方の店で買うと、店Aと店B間の移動の費用が余計に発生するからです。

このように、経済判断する時点で、移動等の費用が含まれています。少なくとも、移動等の費用の無い経済判断が生じているという根拠は見当たりません。

移動等の費用の無いモデルを基に移動等の費用の有るモデルは作れない

移動等の費用の無いモデルを基に、移動等の費用の有るモデルにすれば良いという反論は、間違いです。一般にそれは不可能だからです。なぜならば、計算の順序は一般に変更できないからです。数学的に言うならば、「合成関数の交換法則は一般に成り立たない」と言っても良いでしょう。

例えば、「店に行く」費用は、「店で商品を買う」以前に発生するので、「店で商品を買う」後で追加することはできません。お金の分だけなら追加できても、時間等の分は追加できません。数学的に、合成関数の交換法則は一般に成り立ちません。合成関数f(g(x))は、一般にg(f(x))と等しくありません。

移動等の費用の無いモデルに、移動等の費用を追加することは、数学的に、一般に不可能です。つまり、移動等の費用の無いモデルだけでは、現実の経済に対する根拠にはならないということです。

摩擦の無いモデルを基に摩擦の有るモデルは作れる

摩擦の無いモデルを基に摩擦の有るモデルを作るようなものだと、再度、反論する人々がいるかもしれません。しかし、こうした人々は、大きな違いを無視しています。確かに、自然科学の多くでは、理想気体や完全黒体等、理想化・抽象化したものを基に考えます。しかし、これらに作用する理想化・抽象化できない要素は、理想化・抽象化したものと同時に作用しているものです。従って、時間的な前後関係はありません。あくまでも、表記上の前後関係しかありません。「a+b」が「b+a」と等しいようなものです。

摩擦が無いモデルを基に摩擦が有るモデルができるのは、摩擦が他の力と同時に作用しており、力の一種として扱えるからです。空気は理想気体ではありませんが、理想気体としての作用と理想気体ではないことによる作用が同時に作用していると見なすことができます。時間的順序関係があるモデルでは、このようなことはできません。

つまり、例外的に交換法則が成り立つモデルを基に、あらゆる合成関数に交換法則が成り立つかのように、経済学者たちは主張していた、ということです。しかし、関数「f(x)=x+a」と関数「g(x)=x+b」の間に交換法則は成り立ちますが、関数「f(x)=sinx」と関数「g(x)=10x」の間に交換法則は成り立ちません。

「摩擦の無いモデルを基に摩擦の有るモデルが作れるニュートン力学のようなものこそ例外」と思うべきです。

さらに言うと、移動等の費用を無視すると同じ商品であると見なせても、移動等の費用を含めると異なる商品と見なさなければならない場合が出てきます。むしろ、個々の需要家にとっては、異なる供給者から供給される商品は、物理的に同じ商品であっても異なる商品であることになります。これは、完全競争市場の仮定を事実上否定します。需要家にとって、同じ商品を供給できるのは、同じ供給者のみです。

補足

なお念の為に言っておくと、移動等の費用の無いモデルを作るなと言っているつもりはありません。一種の思考実験として、移動等の費用の無いモデルを作ることは否定しません。ただ、それをそのまま現実の経済に適用するなと言っているつもりです。移動等の費用の無いモデルを、現実の経済に対して無闇に拡張するなと言っているつもりです。